コミュニティと仲間

朝ドラ「おかえりモネ」がもうじき終わる。

このドラマは、東日本大震災の日に外出先から地元に戻れず、家族や友達と震災の悲しみをできなかった主人公の物語。

疎外感を感じ、地元を飛び出したものの、行った先の人々に温かく受け入れられることで、その優しさに報いたいという思いが募ってくる。

やがて、新たな地にも、故郷にも、自然災害という共通の課題があることに気付き、その被害を防ぐために気象予報士を目指し、気象ビジネスに取り組む東京の会社に就職する。

だが、公的な放送では、一部の地域に特化した対応に限界があり、地域の一員となって役割を担う必要を感じるようになる。

ついに主人公は、故郷への負い目やわだかまりを踏み越えて、地元に帰る決意をする。

いきなり、朝ドラのあらすじを語ってしまったが、これが僕の眼から見た「おかえりモネ」だ。

まさに今、僕が「コミュニティづくり」に取り組む中で、感じることを見る毎日だった。

僕はコミュニティのことを「何かを共有する仲間たち」と定義するのだが、これはもっともらしい説明に過ぎず実用性に乏しい。

特に「コミュニティの構成員」を示す言葉として、「仲間」が最適だと感じているものの、その説明を怠ってきた気がする。

だが、「おかえりモネ」は、仲間とコミュニティの関係について様々な切り口から僕に手掛かりを与えてくれた。

誰もが持っている仲間意識と、そこから生まれる負い目と疎外感。

そして、コミュニティへの帰属願望と受け入れについて、意見を述べたい。

まず、仲間とは、何かに所属するメンバーのこと。

会社の仕事や学校のクラス、遊びやスポーツなどのグループのほか、家族や親せきも含まれる。

苦楽を共にすることで、相互理解を深め、互いを尊重し助け合う関係を構築する。

ドラマでは、故郷である気仙沼の離島「大島」や、初めの移転先「登米(とめ)市」などの地域コミュニティのメンバーを指し、その後東京では、銭湯を活用したシェアハウスのメンバーや、就職先の企業や勤務先のテレビ局など職場のメンバーを指す。

地域では行政と市民、店員と顧客、医師と患者など、そして東京では家主と入居者、上司と部下、クライアントと顧客など、メンバーの属性は様々だ。

だが、そこには必ず上記の関係性にとらわれず、金銭で精算できない人間関係が存在する。

そして、仲間たちがメンバーとして所属する先、つまり仲間の全体をコミュニティという。

311の数日後に戻った時、故郷のコミュニティの一部から責められることに、主人公は疎外感を感じてしまう。

コミュニティに馴染んでいた元の自分を見失った主人公は、明確な目的も持てないまま「島を出る」と宣言して、新たなコミュニティに飛び込んだ。

温かく「承け入れてくれる」登米の人たちに対し、「溶け込みたい」と振舞うことで、むしろ「何かから逃げてきたことへの気遣い」が生まれることを、主人公は感じてしまう。

ここで言う「承け入れる」とか「溶け込みたい」とは、まさにコミュニティが何かを共有する仲間たちであることを示している。

だが、共有できない時の「疎外感」や、新入者への「気遣い」は、「所属の願望」というよりむしろ「所属の前提」に思える。

あえて僕は、人間が生きるには、コミュニティへの所属が不可欠と仮定する。

だとすれば、コミュニティから脱出し、孤立したまま生きていくのは困難だ。

そこで、社会的な属性や上下関係、そして金銭的な清算手段が、コミュニティへの所属を免れる手段として発達したのかもしれない。

その証拠に、コミュニティへの帰属意識や疎外感は、これらの社会的、金銭的問題とは別物だ。

ドラマの中でも、仲間に必要なのは強さや賢さでなく、しぶとさや明るさだと言っていた。

だから、コミュニティには無理に留まる必要も無ければ、戻るのに躊躇する必要もない。

いつでも帰ることができる上に、帰らなくても良いのだから、それは「帰る権利」と言えるだろう。

この「帰る権利」さえあれば、私たちはコミュニティに所属していることになる。

この権利を守るには、帰る先を存続させること、つまり「コミュニティ=仲間たち」を持続することこそが、一番大切なことだと思う。