厄介という言葉は面白い。
手間や時間がかかり、扱いに困る面倒な人や状況を指すかと思えば、「厄介になる」と言うと面倒を見てもらったり世話になるなど、自分が相手に対し厄介だったことを指す。
「すっかり厄介になりました」を直訳すれば「すっかり手間や迷惑をかけてすみません」と謝る意味なのに、ニュアンス的には「すっかりお世話になりありがとう」と感謝の意味がこもっている。
さらに「ご厄介」という言葉に至っては、「厄介」に「ご」まで付くのだが、こちらは「ご苦労」や「ご面倒」など珍しくない。
だが、苦労をさせたり、面倒をかけたりして相手に迷惑をかけるから、このようにへりくだって敬語になるのは分かるけど、「ご厄介になる」の「厄介」とはいったい何だろう。
似たような言葉の「お世話になる」の「世話」は、「世話をしていただく」ことを指すが、「厄介」は「厄介をしていただく」とは言わない。
考えてみれば、「余計な」を付けると「余計なお世話」の他に「余計なご苦労」や「余計なご面倒」とも言うが、「余計なご厄介」とも言わない。
根拠はないが、どうやら「厄介」という言葉は、まさに「厄介な言葉」に思えてきた。
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さて、いきなり「厄介」という言葉について、自己流でああだこうだと語っているが、ここからが今日の本題だ。
人はなぜ、言葉の意味について、こんなにいろいろ語れるのだろう。
実は先日、「厄介な人」から「厄介な相談」を受け、僕がそれに応えているのを見て「松村さんは偉いねえ」と言う人がいたので、「いや、僕はただ厄介なことが好きなので、好きなことをやってるだけですよ」と言った。
それを思い出し、僕はなぜ「厄介なこと」が好きなのかを考え始めたら、次第に「厄介」という言葉の意味不明な厄介者に思えてきて、「厄介」と似た言葉と比較してその共通点と相違点を考えることで、「厄介」の正体に迫ろうと試みる今日の自分に気が付いた。
それは、辞書も引かず、ググりもせず、ただただ自分の記憶と思考と意思だけで、言語化と文字化に挑む作業だ。
だが、そんな自由で楽しく素晴らしい作業を、なぜ自力でできるのか。
これは決して僕だけの能力ではなくて、誰にでも備わったすごい能力だ。
そこで今日は、この能力について、考察してみたい。
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「言葉の意味」とは、言葉の説明や言いかえでなく、正確には言葉が指し示す物や事を指す。
したがって、人が認知できるすべての物事が言葉の対象となり得るので、僕はそれを世界と呼ぶ。
かつて、「世界は言葉でできている」というテレビ番組が有った時、僕はそれに抗って「言葉は世界でできている」と題したレポートを発表した。
言葉とは、僕たちが世界を認識し伝えるために、その一つ一つにつけた「名前」であり、それ自体は意味を持たない記号に過ぎない。
赤ん坊として感覚と知能を持った瞬間から、僕たちは世界を知り始めるが、知ると言う行為は一つの現実に名前を付けることで知識にすることだ。
だが、それは記憶にならなければ瞬時に消えてしまうだろう。
多数回もしくは繰り返し世界に対応する言葉や記号に接することで、それは知識として記憶されていく。
大多数の言葉は周囲の人や世界から提供されるので、結果的に共有するのは当然だ。
恐らく、生まれた直後からオオカミに育てられた人間なら、オオカミの言葉を理解し話せるようになるだろう。
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こうして、言葉を学ぶプロセスを見ると、そこに教育は介在しない。
むしろすべての人が自己流の独学で、共通や類似する体験や言葉を文化や習慣として知識化する。
もちろん、すべての人が違う時間と空間で生きる限り、周囲との共有を必要としない独自の経験が独自の好みや知識を積み重ねる。
そこで、本来の個別的成長を制御、統一して社会制度に適応させるため、教育という名の矯正が必要となった。
だが、いくら英語の教育を受けても、全然しゃべれるようになれないのに、日本人はみんな難しい日本語をしゃべれるのはなぜか。
それは、言葉は考えてしゃべるのでなく、考える道具として自分で学ぶものだから。・
先ほど僕が厄介についていろいろ述べたように、他の誰もが厄介について大いに語ることができるだろう。
それは、本で読んだのでも辞書を引いたのでもなく、もちろん学校で習ったからではない。
厄介と言う言葉を使うすべての人が、それを自己流で勝手に学び、使いこなしているからだ。
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この議論を、日本語を知らない人に説明するなど、考えただけで途方に暮れるが、恐らく世界中の人々が同じように思っているだろう。
第2外国語でドイツ語を選択したとき、丸暗記するしかない男性名詞と女性名詞の区別を、ドイツ人なら子供の時からできて当たり前だ。
先ほどの敬語にしても「お友達」と「ご友人」のように同じ意味なのに「お」と「ご」があるのは、「お+訓読み」と「ご+音読み」などと教わらなくても、間違える人などいやしない。
こうして考えてみると、勉強の成果をテストで採点するなど、いったい何の役に立つのだろうか。
教わらず勉強せず勝手に学び、評価せず採点せず堂々と提案主張する。
そんな意見や相談を聞きたいし、僕も遠慮せず自分の思いと提案を投げ返す。
それを眺めて、人は「厄介」と言うのなら、やはり僕は「厄介」が好きだ。