主翼になりたい

Wikiによれば、「君が代」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている。

これがその後も様々な歌集に収められ、祝賀の歌として朗詠され、酒宴の際に歌われる歌ともされたらしい。

これが国歌となったのは、明治になってからのこと。

1869年(明治2年)、エディンバラ公の来日に際し、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことがきっかけだという。

当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山巌らは、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、フェントンに示した。

こうしてフェントン作曲による初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。

その後、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)を設立し、フェントンの指導のもと、妙香寺で猛特訓が行われ、翌年1870年(明治3年)8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏され、同年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された。

だが、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて、西洋的な旋律になじめなかった当時の人々が不満の声が多く、まったく普及しなかった。

結局1880年(明治13年)7月、楽譜改訂委員として3名の日本人とドイツ人フランツ・エッケルトの4名が任命され、雅楽の旋律に西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲された。

改訂版「君が代」は、明治13年11月3日の天長節に初めて宮中で演奏され、公に披露された。

明治維新にふさわしいドタバタ騒ぎを経て、できた「君が代」は、1893年(明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用され、1930年(昭和5年)には国歌とされて定着した。

「君が代」は、世界で最も短い国歌であると同時に、最も古い詩を持つことで知られている。

先日のオリパラでも、国旗掲揚や金メダルの受賞式に流れる「君が代」を賛美する声が各所で聞かれた。

白状すれば、僕自身「君が代」が大好きなので、少し調べて見たくなった。

だが、君が代や日の丸が法的に定められたのは、1999年(平成11年)に施行された「国旗及び国歌に関する法律」だというから驚いた。

なぜ今更、政府は国旗や国歌を定めようとしたのだろう。

それはもちろん「天皇制」による統治の強化に他ならない。

現代の教科書に、「君が代の君は、天皇陛下のこと」とは書いていないかもしれないが、明治時代に君が代が作られた経緯からしてそれは明らかだ。

もちろん「君」とは「あなた」のことで、互いの長寿をたたえ合う意味の歌には違いない。

だが、「我らが君」とは「君主」を指し、みんなが一緒に君と呼ぶと、それは「あなた」でなく「天皇」を指すことになる。

終戦後、確かに天皇は君主をやめ人間宣言をし、象徴となった。

だが、それは決して国民の象徴でなく、国民全体の象徴だ。

日の丸と君が代を崇拝させる、精神的君主制だ。

そこで僕は考えた。

に挑むにあたり、国家と国旗を改定したい。

「君が代」を「我らの世」、そして「日の丸」は「空の日」に。

まず、君(あなた)でなく自分自身と仲間たち、つまりする社会を作るのは、天皇でも大臣でもない「我ら(自分たち自身)」のはず。

だから「我らの世は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで」と歌いたい。

そして、白地に赤の「血の丸」でなく、真っ赤な朝焼けや夕焼けの中の白い日のような「空の日」を書いてみた。

僕は、「右翼」でなく、「左翼」でもなく、むしろ「主翼」になりたい(なんちゃって)。