不安を期待に

ようやくコロナワクチンの接種が進みだし、65歳以上の高齢者に対する接種の見通しが立ってきた。

各自治体では、すでに64歳以下の人たちにも接種券の配布を始めているようだが、僕の住む横浜市では6/23に発送を開始し、接種は8月以降の予定だという。

我が家では、すでに僕以外は全員2回の接種を終えており、それとなく「圧力」を感じるようになってきた。

周囲の人たちが、僕が一刻も早く接種を受けられるよう気遣いや配慮をしてくれるのは本当に有り難いことだが、当の本人が「あまり気乗りしない」ことが問題だ。

そんなことを言えば、誰もが「なぜ?」と訊いてくるだろう。

そこで僕は、「なぜワクチン接種したいと思わないのか」と自問してみると、「不安」という答えが返ってきた。

それは「未知なるワクチン」に対する「不安」だ。

今回モデルナとファイザーが開発した「RNAワクチン」とは、メッセンジャーRNA(mRNA)と呼ばれる天然化学物質の人工複製物を使用して免疫反応を起こすワクチンの一種だ。

従来のような病原ウィルス自体から作り出す「タンパク質ワクチン」と比較すると、設計制度と生産速度の向上により、生産コストの低減、細胞性免疫と体液性免疫の両方を誘導する画期的な発明だ。

従来型のインフルエンザワクチンに比べても、格段に高い有効性が実証されつつある。

これに対し、僕の不安は「単なる未知への不安」かもしれない。

ここからは、松村個人のつぶやきなので、絶対に参考にして欲しくない。

そもそも僕は、これまで風邪を引いた経験がほとんどない。

子どものころ、よく風邪をひいたのは、今でいう鬱状態をごまかす仮病だったし、体温計は寝間着でこすってでっち上げた。

だからもちろん、インフルエンザワクチンも接種したことはないのだが、一度友人にうつされて上海からの帰国日に発症し、空港検疫を辛くも逃れ、自宅近所のクリニックに駆け込んだ。

だが、その時処方されたタミフルの効能には驚いたので、決して、医療不信という訳ではない。

不信でないとすれば、「未知」の正体は何なのか、それはまだ経験していない「未来への不安」に僕は思える。

世界中でワクチン接種が進み、そのおかげでコロナ禍は確かに終息するかもしれない。

だがその後、さらなる変異種ウィルスや、思わぬワクチンの副反応が生まれるかもしれない。

ひょっとすると、その時ワクチン未接種の僕が何かの役に立つかもしれない。

似たような言葉で「将来の不安」という言葉をよく聞くが、「将来の安心」とは何だろう。

「先が見えないこと」で「不安」を感じるのなら、「先が見えれば」安心なのだろうか。

確かに「先が見えれば」それがどんなに恐ろしくても、私たちが感じるのは「恐怖」であって「不安」ではない。

つまり、「不安でない」ということがすなわち「安心」なのではなく、「恐怖」などほかの感情に変化することもあるということだ。

これまでも人類は画期的な発明により、幾度も危機を招いてきた。

その典型が「原子力」であり、その功罪については、現在なお論議は終わらない。

一時的な「大成功」が、その後の「破たん」を招き、それを乗り越えることで人類は何とか存続している。

こんなことを繰り返していては、やがて乗り越えられない破たんを迎え、人類は滅びてしまうのではないだろうか。

だが待てよ、これこそ「将来の不安」ではないだろうか。

「最悪の将来を描いてしまうことへの不安」と「まだ見たことのない未来への不安」を一緒ごたにしていいのだろうか。

先ほど「大成功」が「破たん」を招いたと決めつけたが、本当にそうだろうか。

そこで早速、辞書で「成功」と「継続」の対義語を調べてみた。

すると、「成功」の反対は「失敗」だが、「継続」の反対は「中断、中絶、中止、停止」と4つもある。

「不安」の反対は「安心」だけではないと、さっき自分で言ったばかりじゃないか。

そうだ、未知や未来への「不安」を、「ドキドキする期待感」に置き換えよう。

今更僕がワクチン接種を拒んでも、それが世界を救うのはあと数年に過ぎないこと。

だったら少しドキドキするけれど、新しいワクチンを打ってみよう。

・・・と、今日は僕の独り言にお付き合いいただき、感謝したい。