国づくり活動とは

昨年の10月、僕は名刺に書く自分の肩書を「起業支援活動家」から「国づくり活動家」変更したのだが、なんだか照れくさくてその名刺を出す勇気が持てなかった。

そこでまず、いきなり名刺を出す前に「国づくり」について話をして、相手が興味を持ってくれた時だけその名刺を出すようにしていた。

この作戦が功を奏したのか、僕自身も次第に「国づくりの話」がすらすらとできるようになり、結果としてこの新しい名刺を手渡せる機会が増えてきた。

そして昨年末、Y市A区の方たちが笑恵館の視察に見えた際、ついに堂々とこの名刺を皆さんにお渡しすることができた。

行政に従事する方たちに対し国づくりを論じ、その担い手を名乗ることは、僕にとっては大きな一歩に感じられたので、今日はこの「国づくり」について話したい。

一般に「国づくり」という言葉は、大きな社会をまとめていくことを意味するようだ。

ここで言う「国」とは「全体」のこと。

日本という国は、日本人にとっての全体であり、その他の世界は外国となる。

「国づくり」でググってみると、、「美しい国づくり」とか、「国づくり人づくり」という言葉がヒットするが、これらはすべて「日本という国」に関する議論のようだ。

また「地球国づくり推進会」という団体は、世界を一つの国と考えることを提唱している。

もちろん、僕の言う「国」だって、「全体」を示す言葉であることに違いはない。

だが、一般の解釈と違うのは、自分がその国の「部分を担う一員」ではなく、「全体を担う王」となることだ。

かつて、社会を支配するのは一人の王で、他の人々が様々な役割を分担して王の体制を維持してきた。

昨日見たテレビの受け売りだが、日本では縄文時代、弥生時代を経て古墳時代に国の概念が成立したという。

中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられ、ほぼ同時代を表している「大和時代」という呼び名は、日本書紀や古事記などによる文献上の時代区分であり、研究が進んだ結果、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。

前方後円墳の構造は、丸い部分が王の棺が収められる墓の部分で、そこからなだらかに上る四角い部分が新たな王の晴れ舞台だという。

つまり、王の賞賛と地位継承を行なう記念会場を、国民が総力を挙げて作り上げる仕組みが全国に普及することで、日本列島の各所に100を超える古墳国家が成立した時代といえる。

この国家群の中で、大和朝廷が力を持ち、やがて武士が将軍として実質支配をするようになるのだが、それは日本という統一国家でなく、100を超える独立経済国家が類似体制のもとに存在していたに過ぎない。

日本の統一国家像は、対外交易をする際に役立つだけで、国内の諸国家が経済的に独立する社団国家状態は明治維新まで続くことになる。

ベリー襲来でビビった日本は、武士による国家群を天皇のもとに統一し、独立を死守するために列強諸国と戦い続け、第2次世界大戦での無条件降伏を迎えることになる。

だが、2度にわたる世界大戦を経ることでようやく平和を希求することになった世界は、日本に戦争放棄と民主化を突き付けた。

この2つは、日本に託された世界の願いだと僕は確信する。

だが、残念ながら日本国民と言われる人々は、このことを自覚していない。

戦争をせず、市民が主(王)となる社会を作って欲しいと、世界から期待されていることを。

だから、僕の目指す国づくりとは、「戦争放棄と民主主義」を実現することだ。

戦争をしないのなら、大勢が集まって強い軍隊を作る必要などあるはずがない。

僕ら全員が「王の本人やそれを支える民」となり、大小さまざまな国を各地に作り、世界と交流する社会を実現したい

年賀状にはまちづくりって書いちゃったけど・・・。

今年は、市民が公共を担う「みんなの家」、地域社会を経済活動でつなぐ「地域社会圏」、そして地域社会の多様化・国際化をになう「ユナイテッドスクール」などの事業にも関わりながら、国づくりに取り組みたい。