承継を継承する

今日はかなり面倒で難解な話をするので、心して読んで欲しい。

承継と継承の違いについて、以前ブログに書いたときは、反対熟語の面白さの話をした。

熟語は短い物語なので、語順で意味が変化する。

承継の「承」は「うけたまわる、他人の意図をうけいれる」という意味があり、「継」には「あとを引き受ける、つぐ」という意味がある。

だから、「承継」は「他人の意図を理解した上で後を引き受ける」という意味を持つのに対し、「継承」は「後を引き受けてから他人の意図を理解する」という意味を持つ。

そこで辞書(大辞林 第三版)を引くとこう書いてある。

承継:先の人の地位・事業・精神などを受け継ぐこと。

継承:先の人の身分・権利・義務・財産などを受け継ぐこと。

つまり、二つの言葉の違いは「受け継ぐ内容」だという訳だ。

言いたいことは理解できる。

地位・事業・精神などは譲る側に備わる抽象的なものだが、身分・権利・義務・財産は引き継ぐことができる具体的な事柄だ。

だが、僕はこの説明に大きな疑問を感じている。

僕は今、前者を譲る側、後者を引き継ぐ側と説明したが、辞書には「先の人の・・・を受け継ぐ」とあり、どちらも苦しい説明だ。

「承継と継承」は、「譲ると譲られる」や「先と後」によって何かを分類するのでなく、まさに当事者の関係を示す言葉ではないだろうか。

「承」を「承け入れる」でなく「承け入れさせる」と読み替えれば、「承継=承け入れさせて引き継ぐこと」、「継承=引き継いで承け入れること」とも読める。

そこで僕は、譲る側を「承継者」、受ける側を「継承者」と呼ぶことにする。

さて、ここからが本題だ。

相続(そうぞく)とは、自然人の財産などの様々な権利・義務を他の自然人が包括的に承継すること。

僕の論理で言うと、承継なのだから譲る側の話のはず。

ところが、相続について定める民法や相続税法は、いずれも相続を受ける側について定めており、譲る側に関する規定は見当たらない。

もちろん法律が定めるのは、被相続人が死亡した場合のことなので、すでにこの世にいない人を取り扱う意味がない。

だが、だとすれば先ほどの「相続の説明」と矛盾する。

相続が「包括的な承継」ならば、譲る側の想いや願いだけでなく、苦しみや悲しみまでも引き継ぐべきではないだろうか。

だが一方で、承継は権利でも義務でもなく、あなたの自由意思に基づく願いであることを忘れないで欲しい。

僕はあなたに承継を求めているのでなく、あなたの願いを尋ねているだけだ。

自分の死後、自分に属する物事がどうなっても構わない、むしろ誰にも引き継いで欲しくないと願うことは、決して悪いことではない。

ピカソやアインシュタイン、ポールマッカートニーだって、承継などを願うより唯一無二を目指したのだと思う。

だが僕は、自分だけの力でこんな偉業を成し遂げられない。

ささやかな願いすら叶えられずに死んでいくだろう。

だからと言って、自分の願いを諦める気は毛頭ない。

たとえ自分が死んだって、僕の願いはいつの日か叶って欲しいと思っている。

この願いが承継なら、僕は承継を願う人は少なくないと確信する。

現に僕は、承継を望む人を手伝いたいと思う反面、承継を望まない人を手伝いたいとは思わない。

そもそも「手伝いを求める」のは、「承継したいと思う」からではないだろうか。

だとすれば、「手伝いたいと思う心」は「継承したいと願う心」であり、ぼくは「ガッテン!」と大きく頷いた。

僕が関わる笑恵館や名栗の森で、「自分の土地と思って手伝って欲しい」という呼びかけに仲間たちが集まるのは、この呼びかけが承継で、仲間たちの目的は継承なんだ・・・と。

そして、承継者と継承者が一体何を分かち合うのか、ようやく僕は理解した。

それはまさしく「承継」であり、承継を継承することだ。

念のため言っておくが、これは何かを残す人の話であって、もらう人の話じゃない。

いずれ誰かに引き継ぐなら、その人にも同じように引き継いでほしいと願う心の話だ。

そのことを「承継を継承する」と言い換えた時、引継ぎと手伝いがほとんど同じ、仲間づくりだということに気が付いた。

土地の承継を継承する人を地主という。

地主の仕事は、土地を使った仲間づくりであり、それを国づくりと呼んでいる自分が見えてきた。

最後に言っておきたいことは、「手伝いを求め、求められたい」かな。