探すこと と 見つけること

「なぜ」という問いは、際限のない問いだ。

「なぜ」の答えに納得できなければ、また「なぜ?」と問いたくなる。

いつまでも「なぜ?、なぜ?」としつこく聞くと、やがて嫌われ者になってしまうが、「なぜ」以外に答えを探す方法を僕は知らない。

「なぜ」ばかり繰り返すのは、自分だって不本意だが、答えを探すためには「なぜ?」はやめられない。

どうすれば「なるほど!」とか、「そうか!」にたどり着き、「なぜ」を終わることができるのか。

そうだ、「なぜ」は答えを「探す方法」であっても「見つける方法」ではないのかもしれない。

僕たちは、答えを見つけるために探しているのであって、答え探しで暇をつぶしたり人を煩わせるのが目的ではないのだから。

あえて、「なぜ」の繰り返しが答えに辿り着かないケースを見てみよう。

例えば、
「問:なぜタクシーで行く?→答:電車が遅れているので
→問:なぜ電車が遅れてる?→答:人身事故があったので
→問:なぜ人身事故があった→・・・」
は理由の理由を尋ねるケース、そして
「問:なぜタクシーで来た→答:急いでいきたいから
→問:なぜそんなに急ぐ?→答:待たせて嫌われたくないから
→問:なぜ嫌われたくない・・・」
は目的の目的を尋ねるケースだが、この問答に終わりはない。

過去や未来のかなたまで、ただひたすらに「なぜ」を繰り返せばいいだけのこと。

頭の体操にはなるだろうが、必要な答えにたどり着けるかどうかは、かなり疑わしい。

考えてみると、答える側が答えを知っているのであって、質問している人は答えを知らない。

質問する人はいくら答えを聞いても、それが答えかどうか自分ではわからない。

だから答える側が質問する人に「答えを教える」必要がある。

そして、尋ねた人は相手の答えに対して「なぜ」と聞いてはいけない。

それはなぜなら、「初めの答えこそが答え」だから。

もしも質問者にとって物足りなければ、「どこの電車?」とか「何分ぐらい?」とか補足質問をすればいい。

だが、答えに対する「なぜ」は、「疑い」を意味する。

相手の答えを疑っていては議論ができない。

まずは聞き手が、初めの答えを「答えとして聞くこと」が必要だ。

そしてもう一つ肝心なことは、「なぜ」の答えを「理由と目的」のセットにすること。

この場合の答えは、「電車が遅れているので、急いでいくため」ということだ。

そうすれば、続く議論は変わったはず。

僕ならきっと「なるほど、それならタクシーより、僕の自転車を使えば、さらに早くて安く済むよ」と答えるだろう。

だから、「理由と目的」のどちらかが欠けていたら、それを尋ねれば答えが出る。

もしも「電車が遅れている」という理由だけの答えなら、「何の目的でタクシーに乗るのか」と問えば「急いで行くため」と目的を答えるだろう。

もしも「急いでいきたい」という目的だけの答えなら、「どんな理由でタクシーに乗るのか」と問えば、「電車が遅れているから」と理由を答えるだろう。

理由と目的の関係は、原因と結果の関係によく似ている。

それは過去と未来であったり、出発と到着のようなもの。

過去や出発点はすでに知っていることなので、理由を考えることはそう難しいことではないが、未来やゴールを思い描くことはなかなか難しい。

目先の「何のため(目的)」にとらわれて、将来を考えられなかったり、遠い究極の目的ばかり考えてうまく説明できなかったり、ビジネスも、人生も、僕は同じことだと思っている。

だが、目的を説明することは、あらゆる場面で避けられない。

それは、「理由と目的」の両方が揃わないと答えにならないから。

僕たちは、「なぜ、なぜ・・・」を繰り返すばかりでなく、「目的を生み出した理由」や「理由が導き出す目的」を常に考える必要がある。

「答えを探すことと見つけること」の違いとは、こんなことだと思う。

先日、さくまさんちに来てくれた大学生たちと話すうち、こんな説明を思いついた。

われながら面白い!と思う。