未来への継承

ようやく地主の学校の執筆を開始した。

これまでこのブログにもいろいろと書いてきたが、いざ書籍を目指して書き始めると話の内容も深まって、新たな気づきがあるから面白い。

今日はそんな出来事を紹介する。

地主の学校とは、日本が近代化の中で滅ぼしたはずの地主を再生し、新時代型の地主像を構築し、新たな地主を育成しようという取り組みだが、なぜ滅ぼしたはずの地主を再生するのかを、当初うまく説明できなかった。

地主の再生を目指すのは、明らかに地主の必要性を感じるからであり、地主を滅ぼしたことは間違いだったとなってしまう。

だが、実際には地主は滅びるべくして滅びており、滅びたのは当初正しかったはずだ。

結局僕自身の中で、地主が滅びたのは正しかったのか間違いだったのかをはっきりさせなければならない。

できることなら、滅びるのが正しかったのが滅んでみたら問題が発生し、やはり滅ぼしたのは間違いだったと気づきたい。

復活させたい地主の役割は継承だ。

継承とは、売買でなく引き継ぎのこと。江戸時代にはすでに土地売買はあったものの、貨幣経済が発達する以前のことであり、そんな事例はわずかなものだ。

地主は土地を所有していたというよりは、領主から土地を預かり管理していたのに近かった。

明治維新以後日本は急速に近代化し、年貢制が廃止され、地主は地租という税金を払うようになり、土地の開発や売買も盛んになってきた。

もちろん地主だけでなく、地主家族の次男以下や小作人など全ての人たちが、封建社会から解放されていったのだが、それは従来のやり方を継承しないことによるものだ。

つまり昔から引き継がれるバトンを受け取らないことが、昔のしがらみからの開放だった。

ところが、せっかく民主的な豊かな暮らしが実現したのに、その継承が行われていない。

例えば、せっかく勉強していい会社に入り素晴らしい功績を残しても、その手柄やキャリアを継承せず、子どもたちはまた受験戦争や就職活動で苦労している。

せっかくローンを組んでマイホームを購入しても、そこに子供たちは同居せず、新たな家を購入して別居してしまう。

やがて故郷の実家から年老いた両親を引き取って、故郷の家は売却してしまう。

新たなチャンスが与えられ、新たな成功も可能になったが、空き家や廃業が増え続け、地方がどんどん寂れていくのは、次世代への継承をせず、何も守ろうとしていないせいではないだろうか。

いま世界では耕作放棄の原因として天災・干ばつ・戦禍の3つが挙げられており、その原因が後継者不足などと言っているのは日本だけだ。

むしろ福島での耕作放棄の原因として、原発と争うべきなのに、大きな責任を見過ごしていること自体が無責任ではないだろうか。

売買の代金は、まるで過去と決別する手切れ金であり、たとえ相続という継承でさえ、相続税という手切れ金を払うために土地を売らなければならない。

そもそも過去を踏襲するために継承するのは、過去を大切に思い、守りたいと望むから。

これは、ユネスコの「世界無形文化遺産」の定義だ。

自然や建物などの有形遺産なら、その科学的あるいは文化的価値を誰もが認めて保存するが、人間の営みである「無形文化」には、優劣など付けられないので価値という言葉を使わない。

肝心なのは「大切に思う心」であり、継承とはすべてを引き継がなくても大切なものだけを引き継げばいいはずだ。

それでは一体過去とは何だろう。

僕たちにとっての大事な過去とは何を指すのだろう。

実は、今現在僕たちがしていることは、やがてすべてが過去になる。

過去を継承しようがしまいが、これからやることもすべてが過去になっていく。だとすると、僕たちが今やっていることや、これからやろうとしていることを、未来に残したいと思わないのか。

せっかく辛い過去から解放されたのなら、その自由を未来に継承したいと思わないのか。

継承とは、過去を引き継ぐことと考えがちだが、同時に未来に伝えることであり、僕たちはすでに伝える側でもある訳だ。

改革とは過去からの継承をやめることかも知れないが、未来への継承をせずに世界を変えることなどできるのかと、僕は言いたい。