許しがたいのはテロなのか?

パリで許しがたいテロが発生した。

サッカー場では自爆テロが発生し、会場は騒然となったが、会場から外へ向かう市民たちは、高らかにフランス国家「ラ・マルセイエーズ(マルセイユの人)」を歌いながら歩いていた。

悲しみに直面した市民たちの、高揚した表情と歌声が、テレビ画面に劇的に映し出されていた。

その直後、画面の下に流れるその歌の歌詞の翻訳を見て、僕は寒気を覚えた。

武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう 進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで!

これってどうなんだ、過激派の若者たちも同じ歌を歌っているのではないのか?

僕は、とても気になってフランス国家の歌詞を調べると、上記の部分を繰り返しはさみながら、7番まで戦いの歌が続く。

「フランス革命」という歴史をつべこべ言う気など全くないが、現代世界において国民が歌う歌として、問題はないのだろうか。

案の定、これまでフランス国内において、歌詞だけでなく歌そのものを作り直そうという動きはたびたびあったようだ。

1992年のアルベールビルオリンピックの開会式で、少女が一羽の鳩を空中に放ち「ラ・マルセイエーズ」を無伴奏で歌ったが、無垢な少女の口から「奴らは来る、 汝らの元に、汝らの子の喉を掻ききるため」などと歌う光景は、現代のフランス人の感覚に合うはずもなく、国歌を変えようという議論が湧きおこった。

フランスがEUで中心的な役割を果たすのに、周辺国への敵意まるだしの歌を残すのは不適当という意見もあったが、右派と左派が拮抗するフランスの世論ではいつも賛否は分かれ、結局変更には至っていないという(wikiより)。

言論の自由、思想の自由は確かに大切だ。

しかし、傷つけられた人が自爆して報復する自由はどうなのか。

相手の自由に腹を立て、報復する相手の自由を認めてない。

そして気がつけば、自由の国なのに、報復の歌を歌っている。

今が正念場だ。

今が話し合う時だ。

今が我慢のしどころだ。

違うだろうか。