この実現倶楽部は、自分の夢や願いの実現に挑む人たちのコミュニティだが、その実現の場を僕は国と呼び、実現の取り組みを国づくりと呼んでいる。
だが、この「国」に関する話をすると多くの人から、松村さんの話はいつも抽象的で、具体的にどうしたいのか、どうして欲しいのかが分からないと聞かされる。
確かに僕の言う「国づくり」は、総理大臣になってこの国を改革したり、新たな国を作って日本から独立するのでなく、自分の身の回りを国に見立て、そこで自分の夢を実現することだ。
でも、考えて欲しいのは、日本だってアメリカだって、ロシアだってウクライナだって、すべての国が求める国益とは、そこで暮らす国民の願いを叶えることのはず。
つまり、国の構成員(国民)の誰もが持っている様々な願いや夢の実現に、共通して必要なことこそが国益で、それを獲得したり守り抜くことこそが国家の役割なのだと僕は思う。
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だが一方で、国民の夢や願いが一律ならば、合意形成も容易だが、現実にはその多様性ゆえに衝突や軋轢が生まれ、その調整としての公共の福祉が求められ、社会の拡大は窮屈をもたらしてしまう。
そこで僕は、誰もが自分好みの全体を求めるのでなく、身の回りでの「小さな国づくり」を推奨する。
そこでは自分の夢やわがままを、遠慮せずに実践し、その実現が持続する場所を目指せばいい。
その実現のためには協力者が必要だし、その継続のためにはすべてを引き継ぐ後継者が欠かせない。
そんな仲間を集めるためには、そこで実現したい夢に加えて、必要なすべての取り組みを許可する権利=所有権がものを言う。
現在取り組んでいる笑恵館、名栗の森、ふきの庭、一宮庵のすべてが、自分の夢や願いを熱く語る土地所有者が仲間を募ってその実現に取り組むプロジェクトだ。
こうして、たとえ小さな土地活用でも、その土地と願いの関係は国と同じ仕組みであることは明白だ。
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先ほど僕は「小さな国づくり」と言ったが、国にはその大きさに関する基準など何もない。
世界一小さなバチカン市国は別にしても、2番目のツバル (約9,500人〜10,000人)や3番目のナウル (約12,000人〜13,000人)は、国連に加盟するれっきとした独立国だ。
川崎市多摩区の菅(すげ)町会は、約8,000〜9,000世帯、人口約4万3,000人以上を擁する日本最大級のマンモス町内会で、ヨーロッパのリヒテンシュタインより大人数だ。
我が国の国会では、一票の格差が2倍を超えると大騒ぎだが、国連ではこうした小国と中国の格差は14万倍になっている。
このように、自分たちの夢や願いの価値はその規模や人数には関係ない。
したがって、少数派が多数派の意見に従う多数決など単なる暫定措置に過ぎず、とりあえずやってみて問題なければそれで良いけど、そうでなければすぐに見直す「試行錯誤」の一歩に過ぎない。
むしろ全世界が統一されず、多様な国々が乱立していることこそが、自然なことだと僕は思う。
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そして、国が分裂するときにこそ、強い団結が発揮されるのは当然だ。
かつてイギリスから独立を果たすとき、インドは宗教上の団結ゆえに、インド(ヒンドゥ)・パキスタン(イスラム)・スリランカ仏教の3つに分かれてしまい、その後ベンガル語という母語にこだわる東パキスタンが、バングラデシュとなって独立した。
考える道具としての言語の共有は、考え方の共有と密接に関係するはずだ。
その点で、多くの国が言語の違いで国を形成するのは当然のことだし、日本と韓国が独自の言語を公用語とする数少ない国なのは、きわめて興味深い。
僕がこの文章を日本語で書いて発信しているのは、明らかに日本語の分かるすべての人に読んで欲しいからだし、日本語で考えることが日本に所属する日本人だと思っている。
もちろん、日本語を話せない人が日本人になれないわけではないが、日本語を理解することが日本を理解するのに必須なことに、あなたも異論はないだろう。
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だが、日本国憲法第10条では、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」と規定し、日本国籍の取得・喪失の条件を法律(国籍法)に一任(丸投げ)しているが、そこには「出生と帰化」による国籍取得の方法論が述べられるだけで、何ら共有の定めはない。
つまり、日本国民を意味する日本人には共有の必要に関する規定がなく、手続きさえ踏めば誰でも日本人になれると言う訳で、この矛盾が多くの弊害を生んでいる。
日本と言う国は、僕たちが挑む国づくりが見習うべき独自性を持つ一方で、避けるべき曖昧性を持っており、あえて後者を悪い手本と決めつけることで、広い世界に良い手本を求めたい。
たとえどんなに小さくても、町や村など地域の部分などと考えず、広い世界と比較しながら世界で唯一と言われる国を目指したい。
自分の夢を叶えるために、素晴らしい日本と驚くべき世界の良いとこ取りをして行きたいと僕は思う。