未知を求めて

さて、今日は何を書こうかな。
年の瀬に当たり「今年を振り返ろうかな」と思った途端、多くの様々が降ってきた。
考えてみれば、このブログとそれを伝えるメルマガを毎週書いているのだから、少なくとも52回の気づきや発見があったはずだ。
さらに言えば、それらは決してひねり出したものでなく、開示すべきと選んだものだから、それ以外を加えればその様々は数えきれない。
それなのに、これまで僕は、それらを総括したり分析したことは一度もない。
どんなに多くの懸案事項があろうとも、いつも「今日は何を書こうかな」などとのん気に構えている。
でもたまには、僕なりの「振り返り」をやってみるのもいいかもしれない。
それらの結果に今日があるのか、今日のためにそれらがあったのかでなく、なぜそれが気にならないのかを考えてみたい。

まず言えることは、僕は過去を振り返ることを嫌っている。
振り返るとは、その時の自分の思いや判断を思い出し、それでよかったのかあるいはどうすべきだったのかと思いを巡らすこと。
過去の事例をググったり、歴史番組に夢中になるのは、自分の知らない過去を調べて参照しているに過ぎず、決して自分自身の知る過去ではない。
よく、あの頃に戻りたいとか、あの時こうすればよかったと言う郷愁や後悔の言葉を聞くが、僕はそれを口にしたくないと常々思っていることを思い出した。
それはなぜかと尋ねられると、「僕には今より良い過去など一つもない」と答えるようにしている。
それは、今が最高と言いたいことと、過去の辛い経験を思い出したくもないと言う思いの合算だ。
事実、例えタイムマシンが有ったとしても、そこに戻ってやり直したい時など一つもない。

でも、本当にそうだろうか。
もしも今の自分が最高なら、過去のどこに立ち戻っても、最高の人生を再現できるはずなのに、そうしたいと思わないのは、再現できる自信がないからなのか。
そんな僕が臆病で、やり直したいと願う人の方が勇気があるのかもしれないので、そうならないために「今の自分が最高」と慰めているのかも知れない。
つまり、本当の僕は意気地なしで卑怯者かもしれないし、すでに他人からそう見えているかもしれない。
先般、法的に離婚したカミさんからも、離婚すべき有害人物に見えたのだろう。
もちろんこうして自分を振り返ったつもりでも、僕の思考は未知の自分を他人ごとのように冷静に客観視している。
僕は今、幽体離脱的な不思議な感覚で考えながら書いている。
自分に観察されながら、指示を受けるもう一人の自分こそが、誰もが知っている僕のような気がしてくる。

そうなると、誰もが知っている自分と誰も知らない自分のどちらが、本当の自分なのか。
いや、本当という言葉は意味曖昧なので、どちらかを選ぶなら、僕は迷わず誰も知らない自分を選ぶ。
つまり、行動する自分を操る「支配する側の自分」こそが、僕自身だと思いたい。
これまでの判断や選択は、すべて自身の意思によるもので、周囲や自身の現実がもたらした当然の帰結とは思いたくない。
なので、過去と同じ状況で同じ判断をするとは限らない。
だとすれば、今が最善である限り、これ以上の過去もあり得ない。
つまり、やり直しや出直しなど、したいとも思わない。
必然でも当然でもなく、これこそが自然だと僕は思う。
ん、僕が言いたかったことは、まさにこのことかも知れない。
僕が目指すのは、間違いなく「自然」だと思う。

もちろん「僕が自然だ」などと偉ぶる気は無く、それを目指したいという意味だ。
自然には、「森や海」のような人間以外を指すだけでなく、「あるがまま」とか「おのずから」と言った全てを包含する意味もある。
僕としては、愚かで非力な自分だからこそ、選り好みすることなく全てを知りたいと願い、それを目指すだけ。
だがそこには、まだ誰も知らないことを知りたいと言う欲が、確かに存在した。
それが初めてのことを選ぶ習性を生み、初めてかどうか、つまり未知かどうかの確認にこだわった。
僕がすぐにググるのは、知りたいからというよりは、それが未知かどうかを確かめたいからだ。
僕が知らないからと言って、誰も知らない訳ではないが、少なくとも僕が知っていては未知ではない。
僕が儲からない仕事ばかりやりたがるのは、それは他の人がやりたがらないからであり、その分未知の可能性が高まるはず。
他がやらない新たなことをやってみることこそが、まさに自然そのものかも知れない。

年末だからという適当な理由で、振り返りをやってみたが、思わぬ収穫があって驚きだ。
自身が自然になることを目指していたなんて、今まで考えたことが無かった発見だ。
お陰で、今後の気づきや発見が、ますます楽しみになってきた。
あまりにも楽しく面白いので、過ぎた過去など振り返る時間が無い。
そんな状態が、僕にとっての忙しさだと、改めて気が付いた。