自分の遺言③

遺言について、まだ語り足りないので、今回もさらに加えて言い残したい。
先回、「言い残し」には意図的なものとそうでないものがあるように、遺言にもその2面性があることを述べた。
つまり「たまたま残ってしまったものをどうして欲しいのか」と、「あえて残したのは何のためか」の2種類だ。
「たまたま残ってしまう」が、残すことなく終わらせたいと思ったことなのに対し、「あえて残す」とは、終わらせたくなかったことを示している。
つまり、やり残しとは、終わらせたい物事と、終わらせたくない物事に2分できると考えたのだが、本当にそうだろうか。
そこでまず、この疑問について考えたい。

そもそも人は、本当に終わりなど意識しているだろうか。
これまでも繰り返し述べてきた通り、終わりの典型として「成功と失敗」があり、およそすべての人が失敗でなく成功を目指してはいるものの、それを「終わり方」と認識しているかは疑わしい。
家族や子供に財産を残したいと願う人が大多数なのは確かだが、その家族や子供にも同じことを望んでいるとは思えない。
たとえ子供や家族が、財産を使い果たしても、それは仕方ないと諦めている。
かつて僕は建設会社を経営し、苦労して築いた財を投じてビルを建てる大勢の依頼者と、家族ぐるみでお付き合いした結果、依頼者の死後を引き継いだ多くの継承者が、堕落し没落していく様を見届けた。
苦労を残したくない気持ちはよくわかるが、それなら苦労に打ち勝つ方法を残すべきなのに、労無き楽を与えたために、楽が尽きれば没落だ。
無人島に取り残される人に釣り道具と魚のどちらを与えるかと同じ判断を、だれもが「残すとき」に迫られる。

苦労と破滅を比較するなら、圧倒的に苦労が良いと僕は思うのは、「終わらせたくない」と願うからに違いない。
幸福、名誉、自由といったすべての善きものは、その獲得だけでなく継続することに価値がある。
つまり、「終わらせたくない物事」とは、善い物事を指すのだろう。
だとすると、もう一方の「終わらせたい物事」とは、悪い物事を指すのだろうか。
例えば、生きているうちに使い果たそうと思っていたのに残ってしまったお金は「残したくなかったお金」であり、使い終わることを願っているのだろうか。
確かに、そうであればどんなに無駄遣いをしようとも、残した人の思いは遂げられることになる。
となると、いったいどんな使い方をしたかったのかを知りたいので、それを言い残すべきだと僕は思う。
旅行をしたかったのか、美味しく食べたかったのか、楽しく買い物したかったのか、それを代わりにしてあげたいと僕は思う。
それがどこかに寄付したいとか、誰かにあげたいならば、言い残してくれなきゃわからない。
会社や仕事だって、「こんな仕事は無くなった方がいい」とおもうなら、そう言い残すべきだと強く思う。

というわけで、「やり残し」とは、終わらせたい物事と、終わらせたくない物事に「2分できる」のでなく、むしろ「2分すべき」と思い至った。
なぜなら「終わらせたい」と「終わらせたくない」こそが、「善」と「悪」に対応するからで、さらに正確に言うならば、一般論でなくその人個人が「善と思う」か「悪と思う」かを示すからだ。
とかく何事も、一般論つまり大多数の意見で判断しがちなのは、それが大多数の賛同を得やすいからであり、すべてを一般論で考える人ならば、何も言い残す必要などないかもしれない。
でも、法と異なる相続事項を遺言に記すよう民法が定めているように、一般論と異なる意思を持つときは、しっかり意志表示すべきというのも一般論だ。
極論すれば、「特に言い残すことは何もありません」という意思を含めれば、すべての人が意思表示をすべきだろう。
遺言とは、自分の意志を言い残す書面であり、そのためにまず自分の意志と一般論の違いをチェックすることが欠かせない。
遺言の話はひとまずこれで完結するが、僕の意思表示は永遠に終わりそうにない。

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