知るべき未知

先日、映画「サイレントフォールアウト」を見た。
https://fallout22.com/
その日は僕の誘いに応えてお二人が来て下さったが、政治団体主催の上映会だったため席も少なく、ほぼ満席の盛況だった。
冒頭に2分程度流れるメッセージ動画で、この映画の製作から撮影・監督までの全てを務めた伊東英朗さんが「アメリカの核問題を映画化しアメリカで議論を巻き起こしたい」と語るのを聞いて、頭の中で大きなものがガラガラと音を立てて動くのを感じ、そのまま1950年代のアメリカ中西部に着地した。
「フォールアウト(fallout)」には、核爆発による「放射性降下物(死の灰)」、事件などの「副作用・後遺症」といった意味があり、アメリカで行われた101回の原爆実験による被爆の実態とその顛末が描かれている。
あなたにも是非観てもらいたいので、映画の内容に触れないようにしながらも、今日はその衝撃をお伝えすることに挑みたい。

日本で「核」と言えば、迷わず2発の原爆による「唯一の被爆国」と連想してしまうが、この映画はその転覆からスタートする。
確かに、広島と長崎という市街地に投下された2発の原爆は、瞬時にして数十万人の命を奪った唯一の核攻撃だ。
でも、その後アメリカネバダ州の実験場では101回の大気圏内核実験が実施され、むしろアメリカこそが世界最多の被爆国であること。
さらに、福島の原発事故からも容易に類推できるように、その放射能=フォールアウトが国土全体を汚染していること。
だが、国家はそれを隠蔽(サイレント)し、その被害に気付いた人たちが、苦労の末、ようやく科学的根拠に辿り着いたこと。
そして、それが時の政権を動かして、米中ソによる核実験禁止条約を実現したこと。
問題は、これらすべてがすでに公表されていたこと、少なくとも今回初めて知ったことではないことだ。
そこでまず、映画から少し離れて日本原水協HPより「判明している世界各地の核実験(1945年〜1998年)」についておさらいしたい。
https://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Politics/-99/j_45-98nt.html

まずは、核実験合計メガトン数について、大気圏+地下=計(インド、パキスタンを除く)で比較すると、
アメリカ:141.0+38.0=179.0、ソ連:247.0+38.0=285.0
イギリス:8.0+0.9=8.9、フランス:10.0+4.0=14.0
中国:21.9+1.5=23.4、計: 427.9+82.4=510.3
なお、1961年9月から1962年12月にかけて、244メガトンが爆発させられた。
この量は、大気圏内合計数の57%、もしくは1万6250発の広島型原爆に相当する。
ちなみに、広島に投下された原爆は16キロトンなので、1メガトンは広島の62倍を意味する。
また、核保有国別の核実験回数を見てみると、、、
アメリカ:1,030回、旧ソ連:715回、フランス:210回
イギリス:45回、中国:45回、インド:6回
パキスタン:6回(+α)、北朝鮮 6回
なお、広島と長崎は実戦なので、これらの実験に含まれない。

そして、実験場ごとの実験回数だが、、、
ネバダ: 935回、カザフスタン:496回、ロシア:214回
ムルロア環礁:175回、エニウェトク:43回、中国ロプノール:41回
クリスマス島:30回、ビキニ:23回、アルジェリア:17回
ジョンソン島:12回、オーストラリア:12回、ファンガタウファ環礁:12回
インド:4回、太平洋:4回、モールデン島:3回
南大西洋:3回、アラスカ:3回、ニューメキシコ:3回
パキスタン:2回、ミシシッピ:2回、コロラド:2回
ウクライナ:2回、ウズベキスタン:2回、トルクメニスタン:1回
計:2,051回となり、すでに汚染は世界全体に及んでいる。

だらだらと数字を羅列してしまったが、着目したいのはその数字が示す意味。
1メガトンが広島の62倍というのに、世界の総量は510.3メガトンで、1992年時点で既に広島の31,893倍。
実験回数は2,051回に上るので、平均しても広島の15.5倍の破壊力となっている。
唯一の被爆国を自負するなら、国民すべてがこの数字を肝に銘じて当たり前。
核実験の再開を公言するトランプやプーチンに対し、即座に反論するのが日本政府の常識ではなかろうか。
映画「サイレントフォールアウト」は、このことを知らずに放置する多くのアメリカ人に対し、自分たちこそが世界最悪の被害者かもしれないことを伝える壮大なおせっかいだ。
だが、知るべきことを知ろうとしないことは、それを隠蔽することと同罪だ。
そして、そのおせっかいを通じて、この映画は被爆国にあぐらをかく日本人に対しても警鐘を鳴らしている。
少なくとも僕は、目からうろこがはがれていくように、涙が止まらなくなった。

「未知」はまだ認識されていない「これから知る可能性のあるもの」を指すのに対し、「無知」は「本来知っているべきことについて、知らない状態」を指す。
知ったかぶりをせず、未知を受け入れることも大切だが、この映画は知るべきことを知るために、知るべき未知を探し求める必要性を気づかせてくれる映画だった。

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