面白いといいね

先日ある人から「松村さんのやりたいことは何ですか」と尋ねられ、僕は迷わず「世界が面白いことを若者たちに伝えたい」と答えた。
僕にとって「面白い」は最重要キーワードで、このブログでも既に110回以上タグ付けされている。
僕に「面白い」の重要性を教えてくれたのは、世田谷ものづくり学校で知り合った飲食プロデューサーのTNさん。
当時、様々な飲食の新業態を開発していた彼がクライアントに対するプレゼンで採用されるときの決め台詞が「面白い」だったのに対し、「いいね」と言われた時はほとんど不採用になったという。
この話に興味を持った僕が「それはなぜ?」と問うと、彼はすかさず「”いいね”は客観的良し悪しなのに対し、”面白い”は主観的な賛同・同感だから」と言い切った。
僕はこの答えに衝撃を覚え、まさに「面白い」と思う自分に気が付いて、その後「面白いとは何か」について真剣に考えるようになった。
そこで今日は、この「面白い」についてきちんと説明した上で、その重要性と危うさについて語りたい。

まず「面白い」についておさらいしよう。
「面白い」には楽しい、愉快、興味深いなど様々な意味があるが、他に言い換えられない語釈としては「目の前が明るくなる感じ」をいった語と言える。
広辞苑によると、面は眼前の光景を示し、それが白くなるつまり、明るく、明確になることから、これまでぼやけていた様子が明るくくっきりと見えてくることを指す。
松村流に言えば、「ぼやけたこと」とは「知ってるけど説明できないこと」、つまり、知っていたのに言えずにいたことをズバリ見たり聞いたりしたときに、「それだ!」と気づくことが「面白い」だと思う。
TN氏はこれを主観的賛同と表現したが、今の僕は「自分の思いとの合致」だと言いたい。
自分が知っている答えなんだから賛成に決まっている、いやむしろ逆に、自分と一致することを賛成というべきだろう。

という訳で、「面白い」と感じることは、自分の考えや思いを言葉や形に具体化出来た瞬間だ。
もちろんそれを自力で説明できるなら、それは素晴らしいことだと思うが、それを自力でできないなら広い世界にその答えを求めるしかない。
冒頭に述べた「世界が面白いことを若者たちに伝えたい」とは、「世界を他人事ではなく、自分の探す答えとして見て欲しい」と言い換えてもいいだろう。
具体的に言うと、世界で起きているすべてのことに対し、「良い悪い」でなく「賛成反対」を考えて、その賛否の理由こそが「自分自身の思いや考え」だと知って欲しい。
戦争や災害、政治や経済だけでなく、身近なトピックやトラブル全てについて、自分の賛否や好き嫌いに関する理由や背景を考えて欲しい。
「違和感」とか「同情」など、とかく私見として抑え込んでしまうことほど、大切にして欲しいと僕は思う。

そして最後に付け加えたいのが、「いいね」の危うさだ。
これは、TN氏も言っていた「不採用の決め台詞」であり、少なくとも「面白くない」ことを意味している。
良い悪いや善い悪いは、誰もが共有すべき(下手をすると神様が決めた)客観認識だ。
自分の意見に関わりなく、与えられた価値観に従う言葉に従うことは、考えずに済む楽なやり方だ。
さらに言えば、客観認識とは、大多数の共通認識(=普通)と位置付けられているので、とりあえず従うことが無難で安全だ。
ところが、日本ではこの「いいね」を、「好き・賛成」と勘違いしている傾向を感じる。
現に、facebookの「いいね」は、英語圏では「like(好き)」のこと。
すでに「好き」を「良い」に誤訳しているのでなく、「良い」が「好き」を意味しているとしたら、かなり恐ろしい状況だ。
主観と客観の区別がつかない人に、自己の確立(ないし獲得)は不可能だ。

という訳で、「面白い」とは自分に気付く喜びの瞬間だが、「いいね」は忖度と妥協の産物だ。
Facebookの「いいね」と「超いいね」は、「好き」と「面白い」に変えるべきだと僕は思うが仕方ない。
せめて僕ら自身は、「面白いと思う心」と「面白いと思える世界」を大切に、使い倒したいと切に思う。