少子化を他人事に

先日来、こんなニュースが話題となっている。
「我が国において、去年の合計特殊出生率 1.20で過去最低に、東京は「1」を下回る。」
合計特殊出生率とは「15 歳から 49 歳までの女性の年齢別出生率の合計」のこと。
その適正値は「2.07」とされ、「1-0.07=93%」が人類の生存率と言われている。
少子化問題を象徴するこの指標は、冒頭のグラフを見ても明らかに減り続けていて、このニュースをきっかけに、少子化に関する社会の無策が様々に論じられている。
だが、考えてみるとこうした課題は他にもたくさんある。
我が国における空き家の増加や赤字国債の発行残高、そして地球規模の海水温上昇や二酸化炭素の排出量など、それに歯止めがかからず止まらないことこそが、問題の「深刻性」の定義にさえ思える。
そこで今日は、少子化問題を題材にして、この点について考察したい。

少子化(しょうしか)とは、
①出生数(live births)が減少すること
②その国・地域の合計特殊出生率が2.07を下回ること(Sub-replacement fertility)
③年少人口の割合が低下すること(高齢化の類義語として)
④年少人口が減少すること
を指し、いずれの意味であるかはその文脈に依拠する・・・とある(wiki)。
つまり、少子化に関する文脈が、①出生数について、②合計特殊出生率について、③年少者と高齢者の人口割合について、④年少者人口について、の4つに分類できることを示している。
確かに「少子化」は、これら4つの議論を繋ぐ概念だが、その課題や解決策を示すものではないのに、そう思われているのではないかと危惧を覚える。

そもそも、問題の進行を止められないとはどういうことなのか。
それは、「止め方が分からないか」、「分かっているのに止めようとしていないか」のいずれかだ。
そこでまず、「止め方」について考えてみよう。
「少子化」を止めるには「多子化」すればいい。
これが、大多数の方が直感する少子化の止め方だろう。
婚活を推奨し、出産を支援し、子育ての負担を軽減しているのは、まさに「多子化」の推進だ。
だがここに潜む大きな間違いが、「少子化」の問題化だと僕は思う。
そもそも「少子化」のどこが悪いのか。
世界の平和と発展がもたらした人口増加こそが、資源不足や環境破壊を招いた「人口問題」だ。
その打開策として生み出された「少子化」は、社会と個人双方が望んだ「解決策」だったはず。
つまり、少子化の破たんはグローバル化(画一化)の破たんを意味している。

先ほどの4つの論点の内、少子⇔多子の議論は①だけで、他の3つは別の論点を示している。
あえて、A⇔Bのような対義的表現を試みると、次のようになる。
①少子化⇔多子化(出生数の減少⇔増加)
②滅亡⇔存続(合計特殊出生率:2.07未満⇔2.07以上)
③少子高齢化:生産年齢人口比(15~65才)の減少⇔増加
④年少人口比(15歳未満)の減少⇔増加
こうして整理してみると、①以外はその実数でなく構成比率の問題だ。
その母集団をいかなる人的な分類、地域範囲、そして時間要素で抽出するかで意味合いは変化する。
地域的に言えば、少子化は先進諸国で課題であり、途上国には関係ない。
また、先進国においても欧米諸国のように移民の流入により④年少化が進む国もあるが、日本や韓国など言語的に流入しにくい国では。合計特殊出生率が滅亡を示している。
また政治形態の違いによって、一人っ子政策を実施した中国の人口ををインドが抜くことになり、状況は時とともに変化する。

さらに言えば、日本国内を見ても様々な地域が有る。
合計特殊出生率の上位5位までの自治体は次の通り。
(1)鹿児島県大島郡徳之島町:2.25
(2)鹿児島県大島郡天城町:2.24
(3)沖縄県国頭郡宜野座村:2.20
(4)鹿児島県出水郡長島町:2.11
(5)沖縄県国頭郡金武町:2.11
これらの自治体は、貧しい田舎で人気がないかも知れないが、1.2の日本全体の中で間違いなく生き残る、数少ない明るい未来が見えている。
さらに家族単位でも、20歳までに出産を終えてしまういわゆるヤンキー家族は、たとえ子供が2人ずつでも80才の夫婦に60歳の子、40歳の孫、20歳の曾孫、0歳の玄孫が2人ずついて、③生産年齢人口比は60%となり、30歳以上で出産した場合の33%を大きく上回る。

かつて財政破綻した夕張市の後藤市長(当時)を励ましにお邪魔した際、焼き鳥屋で酔っ払っていたとは言え「財政破綻することで一旦は日本最低の町になるけど、歯を食いしばって財政再建を果たす20年後には、北海道で唯一の無借金の町になる、明るい未来を子供たちに届けたい」と涙ながらに語っていたのを僕は忘れない。
みんな一緒に滅びる未来を恐れるのでなく、「自分たちこそ生き残ろう」と競い合う社会を生きていきたい。
きっと、そういう人が生き残るよう、この世界はできていると僕は思う。
人類すべてが生き残ることなど、世界は必要としていない。
そこで僕は、気の合う他人と仲間になり、家族になることを推進する。
生き残るべき人になれるよう、つまり、生き残れるように頑張ることこそが、やるべきことだと僕は思う。