平和の作り方

「将来に不安を感じたり、日々鬱々と暮らすのは、日本が平和だからのような気がする。今若者たちが、結婚したり子どもを作る気になれないのも、その影響だと思うけど、おじさんどう思う?。」
先日、甥っ子からこんなことを聞かれた僕は、「へえ、そうなんだ。」と感心したような顔をしてしまったが、すぐに反論しなかったこと、出来なかったことを悔やんでいる。
もちろん彼の話を否定したいのでなく、その考えに至った経緯や、それを確信しつつある理由、そしてそれがもたらす未来について、議論出来なかったことへの後悔だ。
振り返れば、この話を聞いた時「人々は平和のおかげで不幸になる」と超乱暴に要約した僕の中には、賛否2人の自分がいて、すぐさま両者の議論が頭中で始まった。
「へえ、そうなんだ。」は、「うわの空」を意味するむしろ最悪の返事に思え、後悔の念は募る一方だ。
そこで今日は、この議論を進め、甥っ子に対し近日中に「ところで、先日の平和のことだけどさ、、、」と切り出したい。

まずやるべきことは、先ほどの問いに対する返答だ。
「おじさんどう思う?」に対しては、即座に「ぼくはこう思う。」と答えるべきだろう。
でも、正直言ってあの時は何も思っていなかった。
なので、せめて「なるほどね、僕には平和が不幸の原因になっていると聞こえたので、頭の中で賛否両方のシグナルが猛スピードで点滅中だよ。」くらい言えれば良かったと思う。
相手に対し、経緯や理由そして未来について尋ねたいと思うなら、まずは自分の状況を具体的に説明することでその意思表明をすべきだろう。
よし、これで甥っ子対策は完了で、あとは議論を楽しめば良い。
だが問題は、それまでの間「僕が何をどう考えたのか」を問われるに違いないし、僕だってそれを是非伝えたい。
という訳で、「情報(情けに報いる)」の意味の通り、甥の問いかけに報いるために、僕は考える。

まず「平和のせいで、つまらないことばかり考えてしまう」という指摘は正しいと僕は思うが、それは平和の一面でしかないはずだ。
戦争や災害、飢餓や疫病など、生存が脅かされるような危機が無い平和を「否定的平和(negative peace)」で、その逆に自由とか平等など生存に必要なことが充足する平和を「肯定的平和(positive peace)」と言うそうだが、
上記の平和は明らかに「否定的平和」を指す。
パクチーハウスで知られるKS君の「旅と平和」と言う会社名は、彼がイギリスのブラッドフォード大学大学院(平和学専攻)に留学した際の修士論文名だ。
ところが当時の平和学は、軍事、医療、経済など圧倒的多数が否定的平和を担っており、自由に旅ができるという肯定的平和に関する研究は、教官たちから相手にしてもらえなかったという。
「何かの無い平和」が、次第に「何もない平和」に置き換わり、虚無の世界をもたらすなら、「何かがある平和」の何かを探すことを、人々に伝えたい。

だが、もっと深刻なのが、世界を平和だと感じていることそのものだと僕は思う。
先ほど述べた、戦争や災害、飢餓や疫病などの生存が脅かされるような危機は、どれ一つとして無くなるどころか増える一方だ。
確かに、自分の周囲には、そんな危機は見当たらず、平和に思えるのかもしれないが、それはその人が世界を狭くしているだけで、その外を他人事として排除している。
確かに平和な世界を実現するには、否定と肯定双方の努力をする他に、平和でない部分を除外して、平和な部分だけを切り取る方法もある。
〇〇主義とか、〇〇ファーストなど自分達だけの世界を目指す排他主義が横行するのはそのせいで、世界が標榜する「多様性(diversity)」や「包括性(inclusion)」の対極だ。
こうした排他主義の支持が高まっていることも、「平和」を「平和でない状態の排除」にすり替える企みだ。

なるほど、ようやく「今日のなるほど」に辿り着いた。
僕が熟慮の末辿り着いた思いは、「平和」を明確化するために「平和でない状態=不平和」の議論が不可欠ということだ。
平和には、肯定的要素と否定的要素があるのは否めないが、それをうやむやにせず、しっかりリストアップすること、もしくは、全ての事象についてどちらに属するのかチェックすることが必要だ。
アメリカファーストは、平和の肯定的要素と否定的要素のいずれかを考えれば、おのずとその是非は明らかになるだろう。
平和な世界を実現するなら、「平和」を尺度に物事の是非を判断するのは当たり前となるだろう。
だとすると、ここで究極の問い「誰もが平和を求めているのか?」が生まれてくる。
次回、甥っ子に会うのが楽しみだ。

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