僕はいつも他人の目など気にするなと言ってるけど、それは違うので訂正したい。
現にこのブログだって、他人に読んでもらうことが大前提であり、いい加減にも程がある。
恐らくこの問題の核心は、「他人の目」という一見明確だが意味不明の言葉を安易に使って来たことだと思われる。
「他人の目」には「他人」と「目」の2要素があり、それは「他人と自分のどちらか」と、「見えているかいないか」のどちらかを指している。
僕にとって、他人と自分とでは自分のことしか考えられないけど、誰も見ていない自分より他人に見えている自分のことがいつも気になっている。
なので、他人からどう見えるかは大事だが、どう思われても仕方がない、、、とでも言い換えたい。
でも、全然すっきりしないので、今日はこれを考察したい。
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そもそも他人のことは考えられないとか、誰も見ていない自分などどうでもいいとか、あっさり言い切っているが、本当にそんなこと言えるだろうか。
これが僕の割り切りというか特徴で、ちょっと説明してみたい。
もちろん僕は他人のことは気になるし、思いを巡らしたり頭から離れなくなることだって度々あるが、それらはすべて僕自身の思いで合って、他人の思いではない。
むしろ、他人の思いがわからないからこそ様々考えてしまうのだから、すべては自分の思いや考えだと僕は思う。
そして、他人から見えていない自分だけが知っている自分のことを、僕は「秘密」と呼び、この世界に存在しないと考える。
無数に存在する自分の秘密のうち、是非とも他人に知らせて世界と共有したいことについて、僕は語り、態度に表し、やって見せている。
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そして、誠に傲慢だとは思うが、僕は誰もが同じ仕組みで、同じ思いで生きていると想像する。
自分の感情や考えを発信した際の、周囲の反応や変化を観察することで、すべてを学ぶことができるのは、自分と他人、いやすべての人がほぼ同じ構造と仕組みで生きている証拠だと僕は思う。
もちろん、すべての人は異なる存在だが、手足頭があって2足歩行するホモサピエンスという無数の共通点を持っている。
その能力も多様で、時に天才や英雄も現れるが、すべての人は周囲の人々から認知され、影響を及ぼすことで存在する。
いかに素晴らしい発明や発見をしようとも、他人に知られ理解されなければ存在しないのと同じだ。
僕は、他人に知られ理解されることにこそ、興味があるし無我夢中なので、これを「社会的自分」と名付けたい。
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先ほど苦し紛れに言った「他人からどう見えるかは大事だが、どう思われても仕方がない」とは、まさにこの「社会的自分」のことを指す。
この社会では、相手の思いや考えを変えさせることはできないが、こちらの思いや態度を変えることによって、相手の自発的な変化を促すことができる。
一見まどろっこしい仕組みだが、これを数億年続けることで、現代社会が出来上がったのは間違いない。
人類の進化は、少数のエリートが成し遂げるのでなく、全人類が会得し変化することで初めて実現する。
僕は、自分一人が突出することでなく、全人類の進化や進歩の一助になることを目指したい。
なので、僕が夢中になるのはいつも、誰にでも理解できること、誰にでもやれること、そして誰にでも思いつくことばかりだ。
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いくつか例を上げてみよう。
このブログのような議論を世間では「哲学」と呼ぶようだが、最古の学問には何の予備知識もいらない。
僕が最重要視する感覚は、誰でも感じることができる「違和感」だ。
たとえ解決できなくても相談に乗ることや、助けられなくても手伝うこと。
「必要なのに誰もやろうとしないこと」にチャレンジすること。
世界の常識・複式簿記を学んで、お金を管理すること。
お金がなくてもできることから小さく始めること。
会社や仕事を、やむを得ず休むのでなく、自発的にサボること。
資源や思いを共有して、助け合う仲間(家族)になること。
そして、これらの思いをビジョンに描き、実現すること。
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こうして僕は、誰にでもできることにこだわるが、決してすべての人に賛同して欲しいのでなく、どれだけに人が賛同してくれるのかを知りたいだけだ。
一人でも賛同者が現れれば、満足するときもあれば、たとえ千人が賛同しても、さらに賛同者を増やす工夫を重ねることもある。
誰もが賛同するような究極の答えにたどり着いてみたいとは思うものの、それを模索する気は毛頭ない。
僕はあくまで自分のやりたいことをやるだけで、むしろ世界が僕に何を思わせてくれるか、僕は漠然と問いかけるだけだ。
それが僕にとっての生きることであり、もしも社会的に存在する気のない人なら、いつでも死ぬなり消えてもらって結構だ。
僕が目指す世界を誰もが目指してくれるようになるために、いったい僕は何を語り何をすればいいのか、「社会的自分」を模索するだけだ。