辞書に「【手段 (しゅだん) 】目的を達するためにその途上で使う方法。てだて。」とあるが、僕はこの「方法」を「何か(what)」と言い換えたい。
僕はかつて、自分が「結婚したい」と思ったから今のカミさんと結婚した。
だがもしもその時、いきなり誰かに「結婚してください」と言われたら、果たして僕は結婚するだろうか。
もちろん僕が結婚できたのは、ちょうどその時カミさんも僕と結婚したいと思っていたから「いいよ」と言ってくれたはず。
僕だって、自分より先にカミさんから「結婚したい」と言われたら、即座に「しよう!」と答えたはずだ。
同じ結婚なのに、相手によってその是非が変わるのは、結婚が「手段」であって「目的」や「方法」では無いからだ。
もしも、死ぬまで毎週結婚式をしたいなら、結婚は「方法」かもしれない。
だが、少なくとも僕にとっての結婚は、その後の生活を始めるための「手段(手続き若しくは儀式)」に過ぎなかった。
もちろんこの「手段(何か)」は大切だが、それは「目的と方法」を実現する懸け橋に過ぎないことを、今日はしっかり考えたい。
・
先ほど辞書に「途上で使う方法」とあったが、その行為が途上かゴールかを見分けるにはどうすれば良いのだろう。
ゴールとは「目的」のことなので、本人しか分からないし、本人ですらわかっていないかもしれない。
でも、行為を裁き裁かれるときは、行為をもたらした「目的(動機)」が問われるはず。
もしも車で人をひき殺してしまった時、それが「目的」であれば「殺人罪」だが、多くの場合は「殺人」を「目的」とせず、その他の行為「過失運転」または「危険運転」による「致死罪」に処される。
過失や危険はその行為に及ばなければ問題ないが、「殺人」は未遂やほう助だけでなく相手の同意があっても罪になる。
もしかすると、「殺人」という行為は、そこで終結することから「目的実現のための方法」とみなされるのかもしれない。
途上で使う「手段」とは、その先にある「目的(喜びや悲しみ)」があって初めて成立する「架け橋」のような行為なのだろう。
・
だとすると、「手段」は特別な行為であり、普段の行為こそが「方法」だ。
普段の状況に満足していれば、それは「目的」が実現している状態で、もしも不満ならそれが変化を求める「理由」となる。
不満な状況から満足できる状況へ、そんな変化をもたらす行為を「手段」と呼ぶのだろう。
こうした変化をもたらす「手段」が、やがて日常化して「方法」になることもある。
例えば、歯磨きと言う行為は口の中を掃除して不快を爽快に変える「手段」だが、その爽快感を維持するには歯磨きを繰り返す必要が有り、やがてルーティン化すれば「方法」になるだろう。
繰り返す「手段」が「方法」となり、繰り返さない「手段」は消えていく、「手段」と「方法」はそんな関係にあるのかもしれない。
・
一方、「手段」と「目的」の関係はどうだろう。
もちろん「目的」のない「手段」はあり得ないはずなのだが、現実はそうではない。
先ほどの「過失」や「危険」のような「意図せぬ(目的の無い)行為」に満ち溢れ、これを生み出す「惰性」や「見栄」がまん延している。
もちろんそれは、「満足と惰性」や「不満足と見栄」が表裏一体・背中合わせのためだが、「手段」や「方法」と違い「目的」は本人にしか分かり得ないので、「自発」と「自戒」に頼らざるを得ない。
また、未来を善くするために、今を悪くする必要を感じて現状のあら捜しをしたり、これまでの後悔ばかりする人が多いけど、それでは好きなモノを後に残すため嫌いなモノから食べる人と変わらない。
今やってる「方法」のどれが間違いなのか、自分で見つけてくれないと、他人には絶対に分からない。
・
それが分かったら、必ず発表すること。
なぜなら、「目的と方法」は常にセットだから。
「目的」は自分にしか分からないけど、「方法」は誰の目にも明らかだ。
なので、「目的」を隠して「方法」だけ実行しても、それは「手段(架け橋)」になり得ない。
「目的」と「方法」は常に一致していることが前提なので、それを変えたければセットで変える必要が有り、それを「手段」ということがよく分かった。
「目的(why)」と「方法(how)」は、中から見た自分と外から見た自分のこと。
この組み合わせに破たんが生じたなら、「手段(what)」という新たなセットを自分と世界に提示しよう。
続きは実現倶楽部で待ってるよ。
Leave a Reply