日本人の作り方

土地が稼ぐ家賃収入は一体誰のものなのか。
「もちろん土地所有者のものでしょう」と誰もが思うだろうが、僕はそうは思わない。
所有権とは、使用・収益・処分の自由とされるため、こうした勘違いが生まれるのは無理もない。
だが、貸店舗のテナントから家賃を得るのは良いとして、テナントが生み出す収益まで取り上げたら、誰も入居しないだろう。
このように、その土地で得られる収益の中には自分が得るべき収益だけでなく、他人が得るべき収益も含まれる。
つまり、すべての収益は土地所有者でなく、土地自身に帰属して、その取得を許可する権利のことを収益権というべきだろう。
それでは、テナントなど他人が得るべき収益以外は、すべてが所有者のものになるのだろうか。

例えば親から相続した土地を賃貸する場合を考えてみよう。
土地を貸す所有者から見れば、自分の所有地を貸してあげるのだから、その対価に謝礼的な意味を感じているかもしれない。
だが、土地を借りている人から見れば、その土地使用の対価として賃料を支払うのであり、決して所有者に対する謝礼を払っている訳ではない。
むしろ、賃料のほかに要求される礼金こそが謝礼であり、賃料は土地に対して支払っていると言えるだろう。
一方で、所有者には固定資産税や都市計画税(以下固都税と略す)のほか、火災保険など所有者が負担すべき費用が発生するが、これもまた土地や建物に課される負担で、所有者は土地に代わってこれを納付しているにすぎない。
つまり、土地所有者は土地が生み出す収益や負担を土地に代わって出納しているにすぎないと僕は考える。

さてこうなると、土地所有者が得るべき収益や負担すべき経費とは何なのか。
それは、土地が収益を上げるために貢献した業務に対する報酬と、その土地を利用して自ら生んだ収益のいずれかだ。
つまり、土地から見れば、自身を維持するコストと、テナントなどの他人のように譲るべき利用者収益となる訳だ。
だが、土地や建物はこうした意思を表明することができないので、所有者がこれらすべてを代弁することになる。
その意味で、土地所有者はまさに土地の代理人であり、土地の人格を担う土地本人にもなり得る存在だ。
僕が唱える「ソーシャル不動産」とは、土地所有者が寄せる思いを表明する土地のこと。
だが、こうして考えてくると、むしろ「土地自身の思いを所有者がくみ取って代弁する土地」と言い換えたくなってきた。

日本は、固都税を負担するだけで、誰もが土地を所有できる素晴らしい国だ。
今、外国人に対して土地所有を制限する議論が聞かれるが、そもそもなぜ無制限なのかを考えて欲しい。
それは、あくまで土地が主体であり、所有者は法定管理者にすぎないから。
さらに言えば、土地はどこにも持ち運ぶことができないので、「所有」というより「所属」と言った方が正確だ。
土地所有者は、法的に認められた土地の専属管理人と思えば、すべてがすっきりと理解できる。
そして、明治維新を迎えるまでは、この役目を「家(家族)」という組織が担ってきて、誰もが「お家の存続」を最優先に考えた。
明治時代にownershipの訳語として所有が用いられるようになる前は、「知行(ちぎょう)」と呼ばれるこの役割が、地域統治と経営を担ってきた。
それが、相続制度の導入により個人化という細分化が繰り返され、土地は資源(生活の場)から資産(お金)へと落ちぶれた。

おっと、ついつい地主の学校のおさらいになってしまったが、話を元に戻そう。
不動産バブルと空き家の蔓延が同時進行で進む現代社会に、僕はしっかり抗いたい。
それは、日本国土が持っている「素敵な国になりたい」という思いを、代弁し実行する人こそを日本人と呼ぶべきで、土地売買に明け暮れる人こそがむしろ「外国人」に思える。
僕たちは、自分の家が、その周囲が、その地域が「こうなるといいな」という願いを持ち、それを共有する仲間を作るべきだ。
そして、何が必要で何ができるのかを考えよう。
そのために、所有者は仲間たちと共に土地に所属して、収益を上げるべく貢献し、必要に応じてコストを負担すればいい。
所有者、入居者、事業者、来訪者のうち、土地の思いに賛同する人が仲間となって、それ以外の顧客(外国人)を魅了する土地にしていこう。
僕の取り組む「国づくり」とは、誰でもできる「日本人づくり」かもしれない。