念じると願う

笑恵館の開業10周年を記念して、先日楽しいパーティを開催した。

この機会に初めて訪れた方から、開業前からこの施設の変化を見守り続けてきたご近所さんまで、様々な方が集まって、誰もが対等に祝辞を述べる。

これまで様々な事業や地域を「ビジネスコンテスト」で盛り上げてきた仕掛け人の僕としても、「コンテストofコンテスト」で臨んだ。

こうした盛り上がりを引き起こしたのは「記念」という言葉に思える。

記念とは、「あとの思い出として何かを残しておくもの、あるいはそれによって残されたもの」。

残す行為やそのものを示す言葉は、明らかに「記」だと思われるので、「念」がその対象である想い出的な意味を持つのだろう。

だがここで、僕の好奇心がメラメラと燃え始めた。

「念」とはいったい何なのか。

まず僕が直感したのは、先日ブログで取り上げた「思うと願う」の違いについて。https://nanoni.co.jp/20231231-2/

まつむら塾が目指す「実現」とは、自分の夢を自分で現実化することなので、他人に依存する「願う」は「実現」をもたらさない。

そこで「願う」に代わるより自律的な言葉を探す中、ようやく「思う」という言葉に辿り着いたのだが、「念じる」は更なる自律というか、むしろ自己完結型の内的概念に思えた。

「念」とは「常に心の中を往来しているおもい。(悔恨の念)」あるいは「気をつけること。注意すること。(念のため)」などの意味があり、その用例も極めて多彩だ。

念から始まる二字熟語には、念願、念頭、念書、念仏、念力…など。

そして念で終わる二字熟語には、一念、怨念、観念、概念、残念・・・など枚挙にいとまがない。

「念願」は、まさに「願う」との対比を表しているし、「念仏」は「祈ると異なる念じる」を想起させる。

早速「念仏」について調べてみたら、知恩院サイトに引き込まれた。

(以下、https://www.chion-in.or.jp/kacho/4415/より引用)

念仏の念という言葉に目を向けてみたいと思います。

「念」の字を構成する「今」は、蓋や栓の形が元になっています。

従って「今」という字は、箱や瓶などの器を前提としています。

「含」や「吟」の字では口が器に当たり、「念」の字では心が器に当たり、「貪」の字では貝が器に当たります。

食べ物や飲み物を口に入れて、漏れないように蓋をしたのが「含」の字。

上にかぶせた蓋が横にずれて、口から声が漏れたところが、詠うなどを意味する「吟」の字。

心という器に大事なものを入れて、漏れないように蓋をしたのが「念」の字。

ですから、念には念を入れるとか、念を押すとか、念頭に置くと言うのは、心の器から大事なものが漏れないようにすることなのです。

昔、貝は貨幣の役目をしましたから、むさぼりの煩悩を表す「貪」の字は、財を失わないよう、しっかりとガードした字形ということになります。(後略)

このブログでこれまで取り上げてきた様々な概念は、多くの場合外来語をルーツに持つ歴史の浅い「当て字」だったが、「念」は仏教用語だけあって、歴史も古く用例も多彩だ。

翻訳ソフトで英訳すると、「念:sense、feeling、attention、concern、idea、thought、care、desire・・・」と訳語が多すぎて、まるで収拾が付かない。

動詞だと「念じる:remember、have in mind、be anxious、pray silently」と、「remember」以外は熟語しか見当たらず、「remember」を和訳しても「念じる」は出て来ない。

恐らく、「念」を表す英語は存在せず、英語圏には「念」という概念が存在しないのだろう。

その意味でも、先ほどの知恩院サイトの解説はとても面白いので、是非閲覧して欲しい。

脱線はこのくらいにして、話を「記念」に戻そう。

先ほどの「心の器から大事なものが漏れないようにすること」という「念」の意味からすれば、「記念」の意味が見えてくる。

今度は「記念」について調べていくと、江戸時代にはこれを「かたみ(形見)」と呼んでいたことが分かり、その変遷にまた驚く。

その後、英語「memorial」の訳語として、その用法が定着していったのだと思われるが、訳語は決して代用品でなく、類似する手がかりに過ぎないことを忘れたくない。

全ての人が違うのと同じように、すべての言葉が違うことを、今日は深く念じたい。