思うと願う

先日、ディズニー100周年映画「ウィッシュ(wish)」を観てきた。
王に預けた「願い」を取り戻すために星の力を借りながら、誰もが自らも星になる・・・という物語は、1940年に制作された「ピノキオ」の主題歌である「星に願いを(When You Wish Upon a Star)」の思いを忠実に引き継いでおり、まさに100周年にふさわしい。
ぶれない価値観をきちんと示すことで、その価値観の価値をさらに高め、結果としてディズニー社の自信と誇りを感じた。
ちなみに、この映画を見に行ったきっかけは、複数の受講者がFBにお勧め投稿していたから。
「願いを叶えること」がまつむら塾の取り組む「実現」と同じなら、僕もこの映画に便乗したかった。
だが、この願いは叶わない上に、僕は重大な気づきを得たので、その話をしたいと思う。

この映画は「願い」について次の2つを教えてくれる。
1.「願い」とは「願うこと」つまり誰かにその実現を頼むこと。
2.「願い」は漠然としていて、よくわからないこと。
まつむら塾では、自分の「願い」を実現するために、「願い」の内容を自分で探求する術を学ぶので、後者の気づきは大歓迎。
だが、たとえ「願い」が具体化しても、他力を当てにするのではまるで意味がないと思う自分に気が付いた。
そこで今日の本題は、「願う」という言葉に「自分が挑むこと」が含まれるのか。
もし含まれないのなら、僕は迂闊に「願う」という言葉は使えない。

「願う」を辞書で引くと。
1 神仏に、希望の実現することを祈る。祈請する。願をかける。
2 望みがかなうように請い求める。望み求める。
3 こうしてほしいことを人に頼む。助力や配慮を求める。
等の意味が出てくる。
「希望の実現」そのものでなく、それを祈り、求め、頼むこと。
もしも上記の「願う内容」を指す言葉を「願い」と言うなら、「願いを願う」ことになってしまう。

「願い事の内容」は大切だが、「それを願うこと」を論じたいとは思わない。
僕が論じたいのは、願い事を「願う」のでなく、あくまで「自分の力で実現する」ことだ。
そこで僕は気が付いた、「自分がやりたいこと」を「願い」と言ってはいけないと。
「願い」には、自分自身がやることを含まない方が良いと僕は思う。
だがもしも、願う相手が自分自身だとしたら、それはどんなことだろう。
例えば、「今決断をする」ならば、「将来心変わりしないこと」を自分に願いたいかも知れないが、これは将来の自分という他人になぞらえた表現であり、今の自分に該当しない。
少なくとも今現在の自分自身以外に願うなら、それは自分自身の行為とは言えない。

そこで、「願い」に代わる言葉として、「夢」について検討する。
「夢」を辞書で引くと、次の5項目の2番目に、ズバリ目的の意味がある。
1 睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。
2 将来実現させたいと思っている事柄。
3 現実からはなれた空想や楽しい考え。
4 心の迷い。
5 はかないこと。たよりにならないこと。

ここで大事なことは、「願っている」でなく「思っている」であること。
「思う」とは、「考える」や「判断する」ことを指す、他を当てにしない自分主体の行為だ。
今日は「願う」の意味を深掘りすることで、「思う」の意味をより正確に理解することができた。
実現とは、自分が「感じ」「思ったこと」を「実行する」ことを指す。
まつむら塾は「思ったこと」を実行できるよう「説明する術」を学ぶ。
そこに「願う」や「祈る」は介在しないことを、今日は確認できた。
少なくとも「願い」ではなく、「夢」を描きたい。