材料と道具

まつむら塾実現学全20回の17回目は「モノの話」。
「モノ」とは「経営の3要素:ヒトモノカネ」の「モノ」のことで、一般的には「物的資源や設備、製品」と説明される。
今どきはこれに「情報」を加えて「経営の4要素」というようだが、興味のある方はこちらをご参照願いたい。
情報と意思:https://nanoni.co.jp/20240318-2/
「ヒトモノカネ」のうち、「ヒト=人」、「カネ=金」であることは明らかだが、「モノ」はそれ以外の全てを指す極めて漠然とした概念だ。
こうした掴みどころのない概念を見つけると、僕は我を忘れて捕まえることに夢中になってしまう。
それは決して正しい答えを探すのではなく、僕なりの理解をしたいだけ。
いや、もっと正確に言えば、「モノとは何か?」という疑問そのものを誰かに伝え、共有し、僕の解釈を聞いてもらってそれに対する意見を聞きたいという願望だ。

僕はこういう課題に挑むとき、その答えが見つかった状態を考える。
その時はきっと、「モノとは何か」をすらすらと説明できるに違いない。
具体的には、モノに関する「いつ(when)」、「どこ(where)」、「だれ(who)」について、事例を上げて説明できるはず。
もちろん、モノに関する事例など無限に存在する。
どんなに多くの事例を挙げても、キリがないし意味も無いと思われるかもしれない。
だが、その膨大な事例の中から自分が何を選ぶのかが肝心で、そこにヒントが隠されている。
例えば「いつ(when)」について考えた時、僕は「モノの新旧」に思いを馳せた。
「モノ」は時とともに必ず古くなるが、それは「ヒト」が老いることとは異なるし、「カネ」は古くなることはない。
つまり、僕が探していることは、「モノ」と「ヒトやカネ」との相違点。
事例をたった一つ上げるだけで、初めの一歩を踏み出せた。

さて、「モノ」について初めに思い付いた「時とともに古くなる」は、一体何を意味するのだろう。
腐り、朽ち果てて消えていく「モノ」がある一方で、年季とともに価値が高まり大切にされる「モノ」もある。
ムム、これこそが「ヒトやカネ」に見られない「モノ」の特徴かもしれない。
そして変化する価値とは人との関わりなくして語れないので、次は「だれ(who)」について考えてみる。
僕たちの身の回りで古くなって朽ちていくモノの代表は「食べ物」だ。
およそほとんどの食べ物が動植物のため、早く食べないと腐り、痛み、不味くなってしまう。
一方で、その食べ物を載せる皿や茶わん、調理する鍋や包丁は腐ることなく、むしろ手入れをしながら大切に長期間使用する。
ここで明らかに「消費と使用」的な概念が浮上する。
「カネやヒト」においてもに多様な概念が当てはまるかもしれないが、それは本質ではなくむしろ「モノ的側面」と言っても良いのではないか。

だが、「消費と使用」は確かに「モノ」を規定する基本概念かも知れないが、それ自体は「モノ」を示す言葉ではない。
僕が目指すのは、「消費するモノ」や「使用するモノ」を的確に表す言葉を探すこと。
と、ここまで来たところで僕は「材料と道具」をひらめいた。
こうなれば、次は「モノは材料と道具の2面性を持つ」という新たな定義の検証だ。
つまり、この思い付きは果たして求めていた答えなのかどうかを確かめたい。
そこで僕は「どこ」について考えることにした。
そもそも「どこ」は、場所を指す言葉だが、それは同時に「そこにあるモノ」を示している。
部屋とか家だけでなく、山や川も「モノ」に含まれるが、果たしてそこに「材料と道具」は意味を持つのだろうか。

そこで僕は、発想を逆転することにした。
つまり、これらが「材料と道具のどちらか」を考えるのでなく、「材料と道具の2面性」を必ず持つことを確かめる。
例えば、山は写真に撮るなら「材料」で周囲を見晴らすなら「道具」になるし、川は水道水の「材料」となるし雨水を海に運ぶ「道具」でもある。
両方の価値のバランスは様々だが、それこそが「モノ」の良し悪しや長所短所を如実に表している。
少なくとも、「ヒトとカネ以外のモノ」という消極定義や、「物的資源や設備、製品」という限定例示を越えた、「積極的定義」と自負できる。
こうしてまた一つ、僕の発見が誕生した。
まつむら塾は、そんな発見で埋め尽くされているので、全てに対し生みの親である僕ならではの説明が可能となる。
まつむら塾はあなたが成長する「材料」であると同時に、僕がそれをサポートする「道具」でもある。
あなたも自分の夢を実現するために必要な「材料と道具」を見極めよう。