「地域」とは、土地の範囲を意味すると同時に、その範囲にあるすべてを指しており、まさしく「世界」の一部分を意味する言葉だ。
僕たち人間は、この世界で共に暮らしているものの、世界の全てを知る人は一人もおらず、誰もが「異なる部分=地域」から「類推できる全体=世界」を共有しているにすぎない。
例えば「世界は国家の集合体で、国際連合がその最高機関として機能している。」と、多くの人が思い込んでいるように思えるが、僕はこの考え方に真っ向から反対だ。
「国家」は「地域の一側面」に過ぎず、ヒトが生きる範囲としての「地域」は「国家の範囲」に留まらない、ヒトの数だけ存在するきわめて多様な概念のはずだ。
このように、自分の生きる範囲を介して世界とつながる僕たちにとって、まずは自分の地域を考えることこそが必要かつ重要だ。
今日は、まつむら塾実現学の地域編の総括として、地域と世界の関係について考察したい。
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さて、今日はなぜ、いきなり国家を否定するような暴言から始まったのか。
それは国家が人を殺すから。
ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ。
国家間の殺し合いは「戦争」として正当化され続けている。
なぜ「国家」には、戦争する権利があるのだろうか。
それは権利でなく、むしろ定義であり、国家が戦争を前提に形成された社団だからにすぎない。
世界が「戦争をするための国家の集合体」である限り、戦争が無くなるはずがない。
2度の世界大戦を経て生まれた国際連合が、国際平和と安全の維持を目指すのは、当然のことに思えるが、United Nationsという名称は、「連合国」つまり第2次世界大戦の戦勝国を意味する言葉であり、我が国における「国際連合」という表記は、外務官僚による配慮のようだ。
たとえ人を殺さなくても、僕たちが強く国家を意識するオリンピックやワールドカップは、全てが戦争だ。
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こうした状況だからこそ、日本が国家として戦争放棄を憲法に定めていることは極めて意義深い。
つまりこれは、世界で唯一「戦争を前提としない新たな国家」を定義する試みなのだ。
だが残念ながら、僕にはそうした機運はまったく感じられない。
武器の製造や輸出など、検討するだけでも憲法=定義違反だ。
戦争で形成された世界の仕組みに抗うこと自体が、戦争に関わることになっていて、虚しさを感じてしまう。
だが僕は、このこと自体に抗いたい。
僕たちは、戦争に明け暮れる世界に所属している訳では無いことを、しっかり自覚することから始めたい。
そして、「戦争のない世界」などの「ネガティブな(〇〇の無い)世界」でなく、「ポジティブな(〇〇のある世界)」を考えたい。
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国家の愚痴はもうやめて、まつむら塾の議論に戻ろう。
「国家が世界を形成している」という勘違いはなぜ生じてしまうのか。
それは、最初に述べたとおり、僕たちは世界の全てを知らないから。
知っている一部の情報から類推するから、その間違いに気づかないし、その情報すら与えられたものであることを忘れがちだ。
先日述べたとおり、「情けに報いる」からこそ情報は真実になるのであって、与えられる情報に呼応することでフェイク(虚偽)を真実にしてしまうのは自分自身の責任だ。
フェイクを見破るには、自分で真偽を確認するしかないのだが、それができる範囲こそが「自分の世界=地域」だと僕は考える。
誰も信用できない人は自分ですべて判断しなければならないが、情報共有できる友人を持つことで、その人の地域は広がりを持つだろう。
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いずれにせよ、「地域=自分の知る世界の範囲」を知るためには、「自分の知らない世界」の存在を知るだけでなく、「それが何か」を知る必要がある。
この「知らないことは一体何か?」という疑問こそが、まつむら塾のメインテーマだ。
まつむら塾では、知らないことを「知ること」と「それが何かを解ること」を、明確に区別している。
ここで言う「何か(what)」とは言葉のこと、つまり言葉にして説明できることを意味している。
どんなに拙くても言葉にすることで、「それでいいのか?」という疑問が湧き、漠然とした「知ってる」の具体化がスタートする。
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建築のノーベル賞と称されるプリツカー賞を受賞した山本理顕さんが主宰する「一般社団法人地域社会圏研究所」をお手伝いしていた頃、「僕は中華街を作りたい」とよく聞かされた。
「横浜の中華街は、世界各地のチャイナタウンの中でも最大規模であるうえに、周辺地域と融和する最高の成功例だ」と。
確かに、36年間横浜市内に居住した僕にとって、横浜中華街は興味を越えて自慢となり、遠方からの来訪客をもてなす時には必ずと言っていいほど中華街での会食を考えた。
これは、横浜で暮らす多くの人が間違いなく共有しており、横浜という地域を説明する極めて重要な要素となる。
僕は理顕さんから言われるまで、そんな事を考えたことは無かった。
これこそが、「知らないことを知ること」であり、むしろ「知ってることに気付かなかった」と言った方が正しいだろう。