情報と意思

「情報」とは「情(なさけ)に報(むく)いること」という説明が、僕は大好きだ。
辞書によれば、情は「他人を思いやる心」、報は「報い、返礼、知らせ」とあるが、これは「情報」が単なる事象でなく、それに対する問いと答えのような「相互関係」を意味している。
その証拠に、「情報」を和英辞書で調べると、「intelligence」と「information」の2語が示される。
「intelligence」は「情報」より「知性」を意味する言葉なのに対し、「information」には「情報」の他「案内」や「知識」という意味がある。
つまり、「情報」には「情intelligence(知性)」と「報information(知識)」の2つの意味があり、これらを合わせた言葉とも言えるだろう。
この対比から抽出した「知性と知識」の対比こそが、より的確な説明にも思えるが、これをあえて「情に報いる」と表現した日本語のセンスに、僕はしびれる。

確かに「情報」を「知性と知識」と対比することは、現実世界における情報の在り方を理解する助けになる。
「知性」は興味や好奇心に基づいて個人に帰属するのに対し、「知識」は事象や概念など誰もが感じ、記憶できる事象のこと。
それをモノや状況に例えるなら、知識はその外面を指し示し、知性が内部を推察する。
そして、既に存在するこれまでの事象については知識として認識できるが、これから起きる未知の事象に関しては知性無くして論じられない。
これらのことは、情報化社会と呼ばれる世界の現状を読み解く助けにもなるだろう。
生成AIの発達により、フェイク情報の高度化が進む中、多数の人が生成AIによって既成事実化された外見情報を鵜呑みにするのは、知識偏重による知性の低下によるものだ。
情報を疑う心を養うという社会ニーズは、まさに知識を知性で考える必要性を指している。

「考えること」を主題とするまつむら塾にとって、この課題は避けて通れないのだが、「情報」という言葉はまさに答えそのものだ。
つまり、「情と報」の「報」に振り回される人々に、「情」の復権を呼び掛けたい。
大勢が共有する「報」ばかりを進化させず、個別の「情」も育てたい。
恐らく、冒頭に述べた「情=他人を思いやる心」の中にヒントがある。
ここで僕が思い出すのは、中学生の頃に知ったフェルマーの最小原理で、「光は光学的距離が最短になる経路、すなわち進むのにかかる時間の停留点になる経路を通る」という話。
まるで光が最短時間で行ける道を「探している」かのように進む、光の気持ちを表していることが面白い。

もちろん光に意思などあるはずないが、意思があるがごとく見えるように、「情」が他人を「思いやる」のでなく、あたかも他人を「思いやるように見える」ことだと僕は思う。
実際、「思いやるように見える」ことは、いくつも考えられる。
心配に思うことや同情もあるだろうが、単なる好奇心や興味の場合だってあるかもしれない。
「思いを寄せること全て」だと拡大解釈すれば、「関心の有無」とも言えるだろう。
確かに、関心や興味を持つことは考えることの動機となる。
どんなに面白い知識を得たとしても、興味が無く無関心では何も起こらない。
つまり情報とは、「世界の中の興味や関心の対象部分」と言っていいのかもしれない。

まつむら塾では、「地域と情報」と題してこの問題を取り上げる。
それは、「自分の居るあるいは所属する地域の何に興味を持つのか?」という問いである一方で、「自分の興味や関心から自身が所属する地域は何か?」と言う問いでもある。
知識を暗記して安堵するのでなく、知性を研ぎ澄ますことこそが、人生と世界を面白くする近道だと僕は思う。