言葉を使って世界を遊ぶ

僕はよく「松村さんの話は言葉遊びですね」と言われる。
もちろんここで言う「言葉遊び(ことばあそび)」とは、言葉の持つ音の響きやリズムを楽しんだり、同音異義語を連想する面白さや可笑しさを楽しむ遊びのこと。
そう言いたくなる気持ちはよく分かるが、僕はそうじゃないことを説明するのにいつも苦労する。
以前「世界は言葉でできている」というテレビ番組に触発されて「言葉は世界でできている」という言葉を編み出したのも、この指摘に対する反論のため。
つまり、僕は言葉で遊んでいるのでなく、言葉を使って世界を遊ぼうとしているんだ。

まつむら塾の最初の講義「疑問とは何か」は、僕たちが使う6つの疑問詞について説明する。
まず、when(時間)・where(空間)・who(人間)の3つで「世界」を説明し、why(なぜ)・how(どうやって)で「自分」を説明し、what(なに)がそれらに付けられた「言葉(名前)」を指す。
「世界」は客観的な現実で、「自分」は主観的な思いや考えだが、最後の「言葉(名前)」は抽象的な概念だ。
僕らは世界と自分を具体的に感じ考えるが、それらを記憶したり伝達するには、必ず言葉に置き換えて抽象化している。
そのため、僕らは世界のことも自分のことも言葉を使わなければ何も説明できないのだが、ここで言う言葉には「身振りや手ぶりなど」も含まれる。
会話や手話は文字ではないが、コミュニケーションの媒体すべてを「広義の言葉」と言っていいだろう。

こうして僕たちは、「言葉でしか伝えることができない」ことを、いつしか「全てが言葉で伝えられる」と勘違いし、ならば「世界は言葉でできている」と考えるようになってしまった。
この間違いは、「言葉で伝えられないこと」を除外していることだろう。
実は、6つの疑問詞のうち言葉で説明できるのはwhatだけで、他の疑問にはまるで歯が立たない。
なぜなら、説明は言葉でしかできないから。
すべての言葉はwhatの「抽象的な答え」に過ぎず、何ら具体的な説明はできていない。
例えば、「今日は富士山が美しい」という説明では、この言葉以上のことは分からない。
今日はいつなのか(when)、富士山とはどこなのか(where)、美しいとはどういうことなのか(how)を知ってる人にしか分からない。
では、知ってるなら説明すれば良いと思うかもしれないが、それは不可能だ。
なぜなら、その答えはすべて現実の世界や誰かの思いなので、実際に見たり聞いたりするしかない。

僕らがいかに、知っていても説明できないかを紹介しよう。
まず見えるものはほとんどダメで、赤も白も説明できない。
もちろん聞こえるものも、匂うものも、味についても知らない人に説明するのは不可能だ。
もちろん、空間だけでなく、時間や人間についても、知らない人に言葉だけで伝えるのは不可能だが、一度見たり聞いたり触ってもらえば、その後は「アレのことね」ですべて解決する。
他にも、感情や感覚についてもまるでダメ。
悲しいも嬉しいも、寂しいも楽しいも、知らない人に説明できそうにない。
まつむら塾のガイダンスで、「それを信じる」とはどうすることですかと尋ねるのだが、様々な答えが返ってくるのに対し僕が「それを本当と思うこと」と言うと、みんなが「なるほど」と言う。
これは、誰もが「信じる」を知ってるからで、僕の説明がうまいからではない。

言葉が指し示すものを知るためには、実際に見たり触ったりするしかないのだが、そのためにはまず、言葉が何を指し示しているかを知らなければならない。
そこで僕は、次第に辞書を疑うようになり、やがてググったりwikiを見て、全てが自分の知っている言葉になるまで調べ続けている。
もしも知らない言葉があれば、その写真や映像の他、歴史や訪問記などを探して斜め読みする。
ここでも、youtubeや配信サービスが大活躍して、僕は退屈しない。
すべてが知っている言葉になったなら、それを信じるか疑うか、それに賛同するか反対するかなど、自分の意見を明確にする。
なぜそう考えるのか、答えられるならその答えに対し、再び自分の意見を確認する、
そして、答えられなくなった時、それを自分の意見と思うことにしている。

言葉で説明できることは、まだ抽象の域を出ていない。
言葉で説明できなくなった時、そこからが本当の自分であり、現実の世界だろう。
その説明できないことに言葉を当てはめることこそが、抽象化という思考の作業だ。
「言葉が世界でできている」ということは、こういうことだと伝えたい。
それを知ることで、言葉にできない実際の世界を、言葉で描いてみんなに伝え、実現していきたい。
あなたと一緒に説明できない自分に出会うのが、まつむら塾の醍醐味だ。