悔いなく生きる

「悔いなく生きる」という言葉を使って、まつむら塾を宣伝したい。
「悔いなく生きる」は素晴らしい言葉だが、その具体的なやり方は難しい。
多くの偉人が「悔いなく生きるための指針」を名言として残しているが、ぼくは、それらを学んで真似てみようとは思わない。
むしろ、自分の力でやり方を考えて実行することこそが、「悔いなく生きることの第一歩」だと考える。
だが、偉人の意見に従うことと、自分の考えでやることは、一体どこが違うのか。
つまり「他人の意見と自分の意見」は何が違うのかに突き当たる。
「まつむら塾」は、まさにこの問題に取り組むプロジェクト。
今日も、ちょっと分かりづらい話にお付き合いいただきたい。

辞書によれば「悔い」とは、「悔やむ」あるいは「悔いる」こと。
だが、この2つは微妙だが全く違うことを指す。
「悔やむ」は、すでに終わってしまったことや、思いどおりにできなかったことなどを残念に思うこと。
「悔いる」は、自分のしたことを残念に思うことで、反省したり悩んだりという道徳的な面も含む。
両者の違いをズバリ言うなら、「悔やむ」の対象は「思い通りにできなかったこと」で、「悔いる」の対象は「思い通りにやったこと」と僕は読み解く。
だとすると、両者はまるで反対のことを意味している。
多くの人が「悔いなく生きる」という言葉に賛同するが、「悔い」が真逆の意味を含んでしまっては、この言葉の意味を特定できない。

そこで僕はこう考える。
ここでの「悔い」は「悔いる」を指し、「悔いるをせずに生きる」と解釈する
つまり、自分の思い通りにやったことなら、その結果に一喜一憂する必要はない。
結果に満足できなければ、やり方を改善し、満足できる結果を目指してやり続ければいい。
そして「悔やむ」についてはこれを受け入れて、「思い通りにできなかったこと」を改めることで、「悔やむ」を減らす努力をすることとなり、結果として「悔いる」と「悔やむ」の両方を排除することになる。
もちろんこれは僕の見解に過ぎず、いかなる反論も妨げるものではないが、「悔いなく生きる」を実行するためには、こうした見解が欠かせない。
「悔いる」と「悔やむ」が真逆の意味を持つ限り、「悔い」がそのどちらを意味するかを決めずに排除できるはずがない。

そろそろ話を本題に戻そう。
「まつむら塾」の主題は、「自分の意見」と「他人の意見」の違いであり、もっと突き詰めれば「自分と他人」の違いとなる。
これこそが、僕ら自身にとっての最大の課題だと僕は確信する。
先ほどの「悔い」に関しても、「自分の思い通りにやることの是非」はまさに自分の意見であり、「その結果の是非」については自分だけの意見に留まらない。
別の格言に「やらない後悔よりやる後悔」とあるように、やらないよりやることを勧めるのに結果は関係ない。
「やるという行為」と「やった結果」を別物として区別することこそが大切だ。
この時、やるのは自分自身であり、その結果は他人を巻き込んで世界となる。
僕らは常に、自分と世界の折り合いをつけたいと願うが、その時に自分を優先しなければ、「悔いを残す」ことになるわけだ。

この世には、自分にしか知り得ないことと、誰もが知り得ることがある。
例えば色や味の好悪とか、様々な意見に対する賛否など、自分の好みや意見は自分にしか分からないが、世界の様子やこれまでの歴史などは多くの人が共有可能な知見と言える。
つまり、自分の意見は自分で考えるしかないが、世界(他人)の意見は調べたり学んだりできるわけだ。
だが一方で、すべての事象について「自分の見方(主観)」と「世界の見方(客観)」が有り、「悔やむと悔いる」のように両者を対比して考えないと、判断がつかなくなる。
なので、僕らはすべての事象に対して客観的な意見や判断を知るだけでなく、主観的意見や判断を持つべきだ。
まつむら塾は、世界の見解を学ぶのでなく、自分の見解を考えるプロジェクト。
何事に対しても自分の意見を持つための「修練の場」と思って欲しい。

まつむら塾の入口は、「無料ガイダンス」として常に開かれている。
あなたの冷やかし、のぞき見、お試し、チャレンジ、何でもかんでも受けて立ちたい。