当たり前の話だが、僕は「自分が出会いたい人」に出会いたい。
このブログは、まさにそのためのツールであり、僕を知ってもらうためだからこそ、苦労をいとわず毎週書き続けている。
だが、いくら僕を知ってくれても、僕に会いたいと思ってくれるわけではない。
さらに言えば、たとえ僕に会いたいと思ってくれても、その人が僕の会いたい人とは限らない。
つまり、僕はまず、自分がどんな人に会いたいのかを、きちんと伝える必要が有り、さらにはその人が僕に会いたいと思ってくれなければこの出会いは実現しない。
そこで今日は、この話に挑んでみたい。
僕が、どのような(how)人に、なぜ(why)会いたいのかを、きちんと説明してみたい。
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まずは「なぜ(why)会いたい」から説明しよう。
僕には、どうしても伝えたいことが有るので、それを必要とし興味を持ってくれる人に会いたいと強く思う。
僕が伝えたいことは、財産や事業などの「収益源」を「永続所有するやり方」だ。
「収益源」とは、収益を生み出す資源のことで、これを持たずに生きていくことは極めて困難だ。
代表的なものとしては、家賃などの収益を生み出す土地建物や、収益や製品を生み出す事業を所有(支配)して、これらを世代を超えて継承していくことが「永続」を意味するが、広い意味ではこれらに必要な技術や知識、そしてそれらの存続に必要な関係性やネットワークなど、僕たちに収益をもたらす資源は極めて多岐にわたり、それは生存を支えることとほぼ同義にも思える。
僕たちは、これらが永続的に利用できることを前提に生きているので、僕がそれらを「永続所有をする」と言っても、誰もがピンとこないだろう。
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だが、それこそが僕にとって「どのような(how)人」の答えであり、きちんと説明すべき対象だ。
確かに、生存を支える資源は「基本的人権」や「生存権」の名のもとに、すべての人に保証されているのだが、それはあくまで個人レベルのことであり、その永続や承継については保証の限りでない。
つまり、社会や地域が共有するモノは、その共同体が存続すれば継続するが、個人に帰属(所有)する物事については、個人の死によってその所有は終了する。
所有の終わり方には、有償の売却、無償の譲渡、不用品としての廃棄、消滅に伴う滅失等、さまざまな種類があるが、いずれにも該当しない場合にはすべてが国庫に編入され公的に利用されるか競売されるのが、この国のやり方だ。
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もちろん所有者の死を乗り越えて、個人所有の資源がそのまま継承されるケースもあるが、それは上記の分類で言えば「無償の譲渡」に該当し、全ての債権債務を相続することを意味する。
だが、この無償の譲渡を受けるのは、財産の継承者でなく法定相続人であると現状の相続制度は定めている上、譲渡のたびに相続税が課税される。
空き家や空き地、耕作放棄地、そして放置山林の大部分は、継承の意思を持たない法定相続人による所業だ。
土地建物や事業だけでなく、あらゆる文化や文明は、継承のみによって存続し、成長し円熟する。
さらに言えば、その大部分が公共でなく民間が担う私的な資源や取り組みであり、その存続を官の力にすがることでその衰退は加速する。
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つまり、僕が伝えたいことは、個人所有の限界と、その打開策としての共有化だ。
共有の仕組みであった「家族」の崩壊が進む中、制度化された「社団法人」は社員を家族とする新たな家制度として機能する。
社団法人の財産は社員の「総有(そうゆう)」であるが、総有とはある団体の所有となって強く拘束されている状態を指す。
ある団体の財産が「総有」であるときは、構成員は全体としてその団体財産を所有(支配)し、個別に持分を持たないので、各構成員は団体財産に対して持分分割請求をすることができない。
土地建物や事業会社の株式など、法人所有が可能な全ての財産は、総有化することで脱相続が可能となる。
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法人所有を永続保有、個人所有を一時保有と考えて、売買を前提とする財産を個人が、売買を前提としない財産は法人所有が望ましい。
【手放したくない財産をお持ちの方に、「仲間(家族)を作って持ち続ける方法」を伝えたい。】
これがあなたに伝えたいことであり、あなたからその人に伝えて欲しいことだ。
もしも、あなた若しくはあなたの知り合いで、そんな人がいらしたら、僕はいつでもどこでも駆け付ける。