攻めと守り

間(あいだ)とは、二つのものにはさまれた部分のこと。
空間的に、二つのものにはさまれた部分や。物と物とのま、中間、あいま。
時間的に、二つの部分にはさまれた時や、時間の連続の切れた部分、絶え間、間隔。
そして、 人と人との関係や、事物相互の関係、間柄、仲を示す。
空間(where)、時間(when)、人間(who)という世界を指し示す3要素のいずれにも、「間」という字が使われていることは、極めて意義深い。
世界とは、空間的には自分を含む身の回りの現実から遠く宇宙のかなたまで、時間的には遥か昔から未来永劫の先まで、人間的にも自分の家族や友人を越えかわいいペットや好きな風景など、いずれも果てしなく広がっている。
だが、どんなに広く大きくても、そこに自分がいなければ意味がない。
自分から見た人間、空間、そして時間こそが自分にとっての世界を指す。

その結果、宇宙の全体は一つの現実かも知れないが、人々が認識する世界は人々の数だけ存在する。
それは全ての人々の居場所が違うからであり、その居場所を指すのが「間」というわけだ。
人々は、いつ、どこ、だれに身を置くかによって、客観的に同じ世界であろうとも、主観的には異なる世界を見ることになる。
また、人間・空間・時間の3つの要素は、それぞれが独自に存在する3つの次元に相当し、3つの眼差しで世界を見ている。
そこで、ここでは人間の視点から見た世界を「人間関係」と名付け、その見方に付いて考察したい。

いま述べたように、人間から見た世界には自分から見た主観的世界と、自分以外の人にも見えている客観的な世界の2つが並存する。
例えば、「自分が幸せになる」とは、「自分だけが他の人より幸せになる」ということで、「自分自身が努力する」と同時に、「周囲の人を妨害し貶める」ことも含まれる。
僕はこの2つを「攻めと守り」と名付けたい。
つまり、自分個人の世界に対する思いや行為を「攻め」、それに伴う周囲の人々に対する思いや行為を「守り」とする。
一般に「攻めと守り」とは、特定の相手に対する攻撃と防御を連想させ、こちらの攻撃に対して相手が防御し、相手の攻撃に対してこちらが防御する相互関係のイメージだが、現実はそれほど単純ではない。
そこで、ここでは「攻めると攻められる」と「守ると守られる」という2つの関係を想定し、前者を「攻め」後者を「守り」と呼ぶことにする。

実は、このことが今日の本題だ。
僕は、「攻めが攻撃で、守りが防御」でなく、「攻めが自分一人でやることで、守りが周囲の人を巻き込んでやること」と考えたい。
これは、「攻めと守り」の解釈を変えたいのでなく、「主観的行為と客観的行為」に対し、もっと直感的でわかりやすい言葉を当てはめたかったから。
実は先日オンラインで、まつむら塾「実現学13:自分とみんな」の講義をした際、導入部でこの話をしながら、もう少し丁寧に説明したいと思い至った。
自分のためにやること⇒攻め
みんなのためにやること⇒守り
くらいに、バッサリ言い切ることができたら、どんなに清々しいだろう、と考えた末の暴挙だ。

だが、時には暴挙も必要だ。
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』の「嫌われる勇気」は、「好かれない勇気」を言い替えた暴挙だと僕は思う。
好きな人から好かれたいのと同様に、好きでない人からは好かれたくないと思うのは当然だ。
だが、好きでないことと嫌いなこと、好かれたくないことと嫌われたいことは、決して同じではないはずだ。
「攻めと守り」はこれを明確に論じている。
好きや嫌いは「攻めること」だが、好かれるや嫌われるは「守ること」に属している。
問題は好き嫌いの良否でなく、攻めと守りの整合性であり、好きな人から好かれたいのと同様に好きでない人からは好かれたくないことの妥当性といえるだろう。
嫌いな人からは、嫌われた方がハッピーだと、アドラーは言ってる。