必要・可能・願望

僕は常に、自分がやりたいと思うことをやりたいと願っている。
それは同時に、やりたくないと思うことは、極力やらないことを意味している。
したがって、僕は常にやるべきこととできることの中からやりたいことを模索しながら、やりたくないことをやらないように心掛けている。
その結果、このことつまりやりたいことの模索や選別が、僕にとって避けられない作業となり、それ自体が僕のやりたいことなのかどうかを考えてしまう自分に気付くことになる。
だが僕のやりたいこととは、あくまで実際に何かをやることであり、それは何かと考えることではないと思いたい。
そこで一つの結論は、「やるべきことやできることをやりたいかどうかダラダラ考えず、瞬時に判断すること」こそが、僕のやりたいこと・・・ということだ。

ここで早速、第1の疑問に突き当たった。
それは「僕のやりたいこと」が、「自分のやりたいこと」と「松村拓也のやりたいこと」のどちらなのかという疑問。
つまり、ここでの「僕」は、「自分」と「松村拓也」のどちらだろう。
これはとてもいい疑問で、僕の願いの核心部分を突いてくる。
明らかに僕は、「松村拓也」という一個人でなく、「自分」というあらゆる人のことを考えていると確信する。
この文を読んでいるあなたにとっても、同様に適用できる解釈や考え方について論じたいからこそ、この文を書き発信する。
この一連の行為全てが、まさに僕・松村拓也のやりたいことなのだ(と、今気づいた)。

次の疑問は、やりたいことの前提条件、つまりやりたいことは何か、あるいはそれがやりたいことかどうかの判断は、どんな条件のもとで必要なのか。
先述の通り、「やるべきことやできることがやりたいことかどうかをダラダラと考えず、瞬時に判断すること」という目的の中には「やるべきことやできることをやりたいかどうか」という前提条件が書いてある。
これはいかなる事象に対しても、やるべき(必要)かどうか、できる(可能)かどうか、やりたい(願望)かどうかの判断基準があり、3つ目の願望基準だけを瞬時に判断すれば良いのかという疑問だ。
この問いに対する答え方は、やり方が1つの場合、複数の場合、未知の場合の3つのケースが考えられる。
1つの場合はそれが条件を満たすかどうかの「判断」で、複数の場合は条件を満たすやり方の「選択」となり、そして未知の場合は条件を満たすやり方の「模索」となるだろう。
いずれの場合にも共通するのは、「必要」や「可能」という基準は誰もが客観的に判断できるが、「願望」だけは当事者の主観によるもので、他人に否定できないものだ。
だからこそ「だらだら考えず、瞬時に考えること」こそがみんなの利益になると、僕は確信する。

という訳で、これから僕が言うことは、「誰もが自分のやりたいことをやるためには、どうすれば良いのか」ということだ。
先ほども言った通り、事(こと)には、「やるべき」、「できる」、「やりたい」の3つの基準があるが、多くの人が「やるべき」や「できる」の中に「やりたい」を見つけられずにいる。
だが、概してその理由は、そこに「やりたい」が無いからでなく、そもそも自分の「やりたい」を知らないから。
つまり、自分のやりたいことが何だか分からなければ、いくら探しても、たとえ目の前に現れても「これだ!」と分かるはずがない。
だが一方で、周囲の人も「その人が何をやりたいか」など分かるはずもなく、同時に「やりたくないかどうか」だって分からない。
なので、僕のお勧めは、やるべきこと、できることなどなんでも良いから「やりたい」と言って進んでやることだ。

この提案に対し、あなたは「そんな適当な話は聞きたくない」というかもしれない。
だが僕は、このやり方が「実は正しいやり方だ」ということを知っている。
それは、多くの人から「松村さんのおかげで、やりたいことが分かりました」と言われたから。
「やりたいかどうか」はどうすれば分かるのか。
それは、「やってみなければ絶対に分からない」し、「やってみれば分かる」ことなのだ。
そして、これを続けた先に「願いを叶える」や、「夢を実現する」が存在する。
そんなことを追求するのが、「まつむら塾」だ。
今日はついつい「まつむら塾」の宣伝アピールに帰結してしまったが、これは僕のやりたいことだからお許し願いたい。
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