入院期間が1週間を超えると、自分が今何かを「している」のか「していない」のかが分からなくなってくる。
僕はひざ関節内側の骨折部分をボルトなどで固定する手術をしたので、所定の場所に繋がるまで動いてはいけないのだが、一方で長期間固定していると筋肉の萎縮や癒着が進行するだけでなく、血栓ができる恐れもあるので、血液が循環する程度は動かす必要が有るという。
つまり、骨は動かさずに周囲の筋肉は動かしなさい・・・という訳だ。
そこで僕は、医師の指示を実行するために一部を動かすと同時に他の部分を動かさないという状態を維持している。
時々見回りにやってくるナースから「松村さーん、足は動かしていないですね?」とチェックが入るので、「はーい動かないように動かしています」と答えている。
とぼけたやり取りをしているうちに、僕は「する・しない」でなく「している・していない」の世界にいることに気が付いた。
僕は骨が動かないように筋肉だけ動かそうと努力しているのだが、ナースは、それができているかどうか現実しか見ていない。
つまり、「いる・いない」こそが僕が最重視する「実現」を取り扱う言葉なんだ。
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ここが今日の本題なので、もう少し丁寧に説明したい。
一般に「する」と「しない」は対義語の関係にあり、何かの行為を「行うか否か」を意味していると考えがちだが、話はそう単純ではない。
例えば「泣く」と「泣かない」を考えてみよう。
辞書には「泣く」の対義語は「泣かない」でなく「笑う」と書いてある。
もしも悲しくて「泣く」のなら、「泣かない」は「悲しくない」を意味しておらず、むしろ「悲しいけど泣くのをこらえる」を意味しているかもしれない。
ここで僕が言いたいことは「泣く」という行為はその理由や目的でなく、その結果どのような状態をもたらしているかこそが現実だ。
「泣く」とか「泣かない」は所詮口先だけのことで、実際に泣いて「いるかいないか」こそが問題だ。
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「泣く」という動詞に対し、「泣いている」を現在進行形という。
動詞には現在形、の他に過去形と現在進行形が有ることはご存知だと思うが、この現在進行形こそがまさに現在=現実で、現在形は未来を示している。
「僕は泣く」という言葉は、「今から泣く」という宣言であり現実には泣いていない。
つまり、泣いていない状態から泣いている状態に変化することを「泣く」という。
また、過去形の「泣いた」は過去に泣いたことを意味しており、今泣いているかどうかは不明だ。
結局、今実際に泣いているかどうかは、現在進行形でしか説明できないわけだ。
だとすると、現在何かをしているかいないか、つまりいるかいないかですべての現実を説明できる。
「泣いている」も「泣かずにいる」も、どちらも行為であり、それを実行しているか同課の表現は「いる・いない」の1種類だ。
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自分が目指す目的や、叶えたい夢を人に伝えて共有するには、その客観的な状態を確認できるようにする必要が有る。
僕はこれまで、言葉や概念の意味を他人と共有することの重要性を確信しつつも、その難しさに直面し考え続けてきた。
先ほどは「泣くと笑う」を例にしたが、その意味や内容については触れるのを避けた。
なぜなら、その意味については難しすぎて、とてもじゃないけど語れない。
だが、もしも誰もが泣く状況を実現したいなら、人々が泣いているかどうかを確認することならできそうだ。
つまり、実現とは「それを確認できること」、つまり「目的とする現実社会の人間、空間、時間がどのような状態になっているかどうか」のことであり、「いる」が実現、「いない」が未実現となる。
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手術から1週間、僕は実現の状態を説明する術を理解する状態に辿り着いた。
次の1週間は、まつむら塾が何を目指すのか、どういう状態を実現したいのかを、しっかり妄想したい。
ではまた来週!