死と滅びの違い

僕が持続にこだわるのは、滅びたくないから。
それはすでに、持続可能な世界を目指す現代社会の潮流そのものであり、否定する人はいないと思う。
ところが一方で、着実に進行しつつある滅びの実態を、大多数の人々は直視しようとせず、その原因はなかなか論じられない。
その理由もまた明らかで、恐らくは滅びが死を連想させ、縁起でもないと思うからだ。
だが、それこそが問題の核心だ。
持続とは、滅びないようにすることのはずなのに、滅びゆく現実から目を背けて良いはずがない。
もしも、ここまでの話がピンとこないなら、それこそが滅びに気付いていないこと。
少なくとも、世界が滅びつつあることを想定していない。

まず、死と滅びの区別について考えたい。
どちらも「終わり」を意味するが、死は個別の終わりなのに対し、滅びは集団の終わりを意味する。
ひとりの死とみんなの死、どちらも悲しいことだし、どちらが悪いことかを考えても仕方ない。
だが、死と滅びには決定的な違いがあることを忘れてはならない。
それは、我々人類はこれまで全員死んできたが、まだ滅んでいないこと。
だから、これからも誰もが必ず死ぬが、いずれ滅びるとは限らない。
死は防ぐことはできないが、滅びは防ぐことができるかもしれない。

僕たちは、誰もが滅びの当事者でもあるのだが、果たして滅びに対して抗っているのだろうか。
例えば、少子高齢化という問題は、子どもが減少することで構成員全体の高齢化が進むことを指している。
このまま進行すれば、やがて子供が生まれず、あるいは負担に耐えかねて流出し、全ての構成員が死に絶える、
これが滅びのストーリーだ。
少子高齢化、地球温暖化など、多くが「このままでは、滅びてしまうかもしれない」という問題のはず。
だが、人々からそういう危機感は感じられない。
いつまでも「滅びない」ことでなく、とりあえず「死なない」ことを目指す、目を背ける人々、抗わない人々、滅びゆく人々に思える。

一方で、次々に露見する破たんに目を奪われて、滅びに辿り着くのは容易でないのが現実だ。
例えば、高齢化が進んで税収が減少すれば、行政が立ち行かなくなり合併を余儀なくされる。
合併とは、複数の事業体が一つになることで、個別の事業体の死をもって、全体の存続を図ること。
我が国において、町村の死を促進する合併は、あくまで日本政府の滅びを防ぐ手段であり、地域の滅びは止まらない。
平成22年4月、総務省は「平成の合併について」の中で、次のように明言した。
明治の大合併:小学校や戸籍の事務処理を行うため、300~500戸を標準と して、全国一律に町村の合併を実施。
昭和の大合併:中学校1校を効率的に設置管理していくため、人口規模8,000人を標準として町村の合併を推進。
平成の大合併:地方分権の推進等のなかで、与党の『市町村合併後の自治体数を1,000を目標とする』という方針を踏まえ、自主的な市町村合併を推進。
つまり、明治維新、昭和の敗戦と繰り返された自治体の合併は、地域の発展や存続から自治体自身の存続にすり替わっている。
明治22年当時7万以上あった自立集落のほとんどを殺して、1,000にすることで生き残ろうとするのが日本政府なのだ。


「死」には「個別の死」と「集団の死」の2種類があり、ここでは後者を「滅び」と呼ぶことにしたい。
なぜなら、生命は「集団で生きること」を選んだと、僕は確信する。
すべての生命は、「死なない」ために「生きる」のでなく、「滅びない」ために「死ぬ」のかもしれない。
もちろん「生きる」とは「死なない」ことではあるが、生命は「死なない」に固執するより「産む(生まれる)」を選んだようだ。
こうして「滅び」を回避できるようになった生命は、「生きる」だけでなく「死」をも「滅びない」ために使えるようになった。
僕が存続を願うのは、すべての生命が「滅びない=存続」を目指していると思うから。
そして、僕と似たような生命による「存続を願う集団」に所属したいし、「存続を願わない集団」には属したくない。

存続を願うとは、どういうことだろう。
かつて恐竜を絶滅させた巨大隕石や、氷河時代など、生命の存続を脅かす危機は様々あったのに、それらを乗り越えて生きているのが我々現代の生命だ。
つまり、滅びをもたらしうる危機を想定し、それを回避あるいは克服する姿をイメージすることだと僕は思う。
例えば戦争を考える時、それがもたらす滅びとは、何が失われることなのか。
その集団の存続は何をもたらし、それを守るためにどうすれば良いのか。
その集団を存続させるためなら、ある個人の死、もしくはある集団の滅びが必要なのか。
かつてあるたばこメーカーが、「弊社は、死をいとわない愛煙家たちにたばこを提供することで、世界の人口問題解消に寄与しています」と発信するのを見て、苦笑いした自分を思い出す。
どんなに危険でもウクライナに留まる人々、ジャニーズの名前を捨てられない人々。
人は集団になることで「滅び」を免れるだけでなく、むしろ「滅び」を選び、求められることもある。

さらに上から俯瞰すれば、こうした多様性もまた「滅び」を免れる手段なのだろう。
善と悪のどちらが滅びるべきか分からなければ、とりあえず両方残した方が存続する。
正しいものが残るのでなく、残ったものが正しい。
そうなると、存在するモノつまり現実は全てが正しいことになり、世界に問題など無いことになりはしないか。
そこで登場するのが、「滅び」につながる未来イメージだ。
今現在問題なく存続していても、滅びる未来が予見できることが「問題」として浮上する。
先ほど述べた「滅びのストーリー」こそが、未だ見ぬ未来の入り口だ。
だから僕は破たんが好きだ。
どうしようもなさそうな未来を、どうにかすること・・・に、僕は挑みたい。