権利と任意

権利とは何かをしなくても良い自由で、義務とは何かをしなければならない責任。
この解釈の権利部分に対し、なぜか多くの人が違和感を感じるようだ。
権利とは、勝ち取った力であり、従来できなかったことをできるようになったことを指す。
それを「しなくても良い自由」などと言うのは失礼だと。
僕はその意見を否定する気はないが、その場合の責任はどうなるのか。
何かをしなければならない義務に対し、権利は「できる」に過ぎずまだやったわけではない。
時としてやらなければ処罰される義務に対し、権利はやらずとも処罰されることはない。
このように、「権利と義務」は「しない」に対処することで、結果的に「する」を促している。

この議論の典型が、選挙権の問題だ。
投票率の低迷が問題視されるわが国では、選挙のたびに巨額を投じて「大切な権利を行使しよう」と投票を呼び掛けている。
それほど大切なことであれば義務化すれば良いと思うのだが、なぜその動きは感じられないのだろう。
選挙権を義務化すること自体が非常識なことなのか、と、試しにググってみたら、なんと「義務投票制」という言葉があり、その採用国が多数存在する。
罰則適用が厳格な国としては、ベルギー、スイス、ルクセンブルグ、キプロス、シンガポール、オーストラリア、フィジー 、ナウル、ウルグアイなど9か国。
罰則適用が厳格でない(不明)な国としては、エジプト、ギリシャ、トルコ、リヒテンシュタイン、ガボン、モンゴル、パナマ、ブラジル、アルゼンチン、エクアドル、チリ 、ペルー、ベネズエラ、パラグアイ、ボリビア など15か国。
罰則が定められていない国としては、イタリア、タイ、フィリピン、メキシコ、コスタリカ、グアテマラ、ホンジュラス、ドミニカ共和国 など8か国が存在する。

義務投票制は、選挙において投票すること(または投票所へ行くこと)を有権者に対して法律上義務付ける制度で、義務投票制度または強制投票制(度)ともよばれ、対義語は任意投票制。
つまりここでは、「義務」の反対は「任意」となり、「権利に基づく制度」を「任意制」と呼ぶわけだ。
例えば、ブラジルも投票が「義務(obrigatório)」になっている国のひとつで、ブラジル人(18歳から70歳で文盲ではない者)が大統領選挙などに投票しなかった場合、次のような罰則が科される。
投票権者名簿からの抹消、パスポート申請不可、IDカード申請不可、公務員の場合は給与受取不可、金融機関からの融資不可、公的な役職への就任不可、公的教育機関への入学不可、学位証明書の取得不可。
そして、投票日に選挙に行けない場合は、事前にウェブサイト上で「その理由」を申告せねばならず、その申請は裁判官によって審査される。

ブラジルで選挙が義務とされている背景にはいくつかの理由があるようだ。
ブラジル国民の多くが貧困層で教育水準が低いため、彼らが「選挙権」というものを理解できず、自由選挙は彼らの「権利」を奪うことになる(という為政者の価値観)。
投票を義務化することで、国民が定期的に国政について考える機会を提供し、国民の政治的関心を高める。
国民の大部分が投票に参加することで、選挙の有効性を高めることが期待される。
ブラジル選挙法第136条には、「最低でも50名の有権者が居る場合には、村落、集落、病院(視覚障害者・ハンセン病療養所を含む)において投票のための設備を設置することを要する」とあり、ブラジルでは「刑務所」でも投票が行われる(罪が確定している者は除く)。
また、アマゾンなどジャングルの奥地に住む住人についても、文盲でなければ投票義務があり、選挙管理委員会はジャングルの奥地に出向いて投票できる環境を整える。

一方で、16歳、17歳、71歳以上のブラジル人の場合は、例外的に投票は「任意(自由)」となっている。
つまり、ブラジルの投票権(権利)には、「義務と任意」の2種類があるというイメージだ。
また、それとは真っ向から反対の議論もある。
投票を、納税や兵役と同じ義務と考えるか、言論や宗教の自由と同様に公民権の一部と考えるかの違いによる。
政治的意思表示をしない権利や、どの候補者にも賛同しない不選の権利など、投票を強要されることが権利を侵害するという考えだ。
だが、すでに答えは出ているし、あまり悩む必要はないと僕は思う。
異なる考えに基づく多様な国々が存在する現実世界こそが、解答そのものだ。
賛否両論の統一や集約ばかりを目指さずに、異なる原則を持つコミュニティが分立することで、平和を構築しても良いと僕は思う。
東と西、南と北、都会と田舎、海と山、様々な違いが均質な平等を目指すのでなく、違いを自慢し合う世界を目指したいと切に思う。