終わらないを実行する

先回は「終わらない」を目指したが、今日は「終わらない」を実行したい。
先日僕は、「永久に続くことなど、誰も見たこと無い」と言ったが、それは「無いこと」を意味しない。
人間には寿命があり、永久に生きることができないので、「永久を見ることは不可能だ」と言っただけ。
そんな人間が「何かを永久に終わらないようにすること」など、果たしてできるのだろうか。
それは簡単なことで、誰もがやっていると言ったら、信じてもらえるだろうか。
いやむしろ、僕たちにとって「終わらせる」ことの方が難しく、多くのことをずるずるとやり続けていると思えるが、あなたはどう思う。

まず、「終わらせる」ことの難しさから説明しよう。
「終わらせる」には、「」の2つの理由があり、「成功は続けなくてよい状態」で、「失敗は続けることができない状態」と考えたい。
成功し儲かったら、そこでやめても良いはず、ついついやめられずに続けてしまう。
失敗し損をしたら、続けるのが難しくなるはずなのに、なかなかやめられずに続けてしまう。
ついつい、なかなか「やめられない」から終わらないのでなく、僕は目指しているのは「やり続けたい」から終わらないことだ。
「やり続けたい」と願うのは、「失敗せず成功し続けたい」に近いと思うが、この場合の「失敗と成功」は「終わり方」でなく「途中の比較」に過ぎないと思われる。
したがって、「終わらせる」をもたらすのは、かなり極端な「成功と失敗」なので、そこに到達するのは容易ではない。

次に、「終わらせる」ことを本当に望んでいるのかを、検証してみたい。
様々な営みの多くが、何らかの課題解決を目指しているということは、「解決という終了」を目指しているはずだ。
軍隊はの終結を、弁護士は事件の解決を、医師は病気の完治を目指している。
受験勉強は合格・進学を目指し、終活は就職を目指し、就労は立身出世を目指している。
だが、これらのゴールは実現のめどが立たない夢物語か、とりあえずの通過地点に過ぎず、終着点と言えるゴールとは思えない。
いやそもそも、僕たちに目指すゴールなど有るのだろうか。
そこに向かって進むことが「生きること」と言える終わり方などあるのだろうか?

現実は全くこの逆で、誰も終わりを望んでいないが、終わり方には「死」以外の選択肢はない。
僕たちは、いや全ての命はこのルールの下に生まれてきて、「生殖と繁殖」という「終わらない」によって存続している。
つまり、「終わらない」は存続の方法であり、「終わる」は滅びることを指す。
僕が「終わらない方法」を提唱することは、すでに「終わらない」を目指す「命の前提」を放棄している人々(先進諸国民)たちの道連れになりたくない一心からだ。
事業承継や土地承継をあっさり諦めて、社会の消滅に抗おうともしない人は、自分の死さえ直視できない「無責任」と僕は断ずる。
「終わらない仕組み作りに取り組まない社会」がすべて滅びてきたことは、歴史が証明してくれる。

「終わらない」を実行するなら、至る所に手本がある。
世代を超え、残るモノ全てがその手本と言えるだろう。
一番分かりやすい例として「新品」について話したい。
「新品」ほど寿命が短く、儚く終わる者はない。
「新しい」という価値は「古くなる」ことで消滅する。
つまり、全ての「新しい」は、次の「新しい」の誕生とともに消滅する。
新しい道路、新しいトンネル、新しい橋、新しい森など、儚いものばかりが作られている。
被災前の街を再生することでその歴史を引き継ぎ重ねていく復興と、目先の利益や安全を求めて作り直す安易な復興もまた、その差が顕在化するだろう。
「新築という終わり」でなく、「いつまでも作り続ける」ことの先に未来があると思う。
来年は、バルセロナのサクラダファミリアに行きたいな。