僕は、「永続」という言葉をよく使うが、多くの人がこの言葉を聞くと「きょとんとした顔」になる。
無理もない、「永続」とは「永久に続くこと」であり、そんなものは見たこと無い。
「無限のかなた」とか、「永遠の謎」という言葉に付きまとう「無限」の概念は、もっぱら「途方もない」という意味に使われて、数学的あるいは論理的に受け止めてくれる人は滅多にいない。
そんな時僕は、すぐさま「持続」とか「存続」という言葉に言い換えて、その場を凌いでいる。
すると、たいていの人はすぐさまホッとして、「それなら分かる」と言わんばかりの表情に変化する。
だが、考えてみれば不思議なことだ。
僕から見れば、「永続」と「存続」はほぼ同義なのに、なぜこれほど反応が違うのだろう。
まずは、これらの言葉の違いをおさらいしよう。
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これらの言葉に共通するのは「続(ぞく)」つまり「続く」ことで、それは終わらないことを意味している。
だが、「続く」には時間的なつながりの他、物や道など空間的なつながりや、後続の人など人間的なつながりの意味もある。
そこでまず、ここで扱うのは「時間に関する続く」に絞り込みたい。
だが、それでも様々な「続く」があるので、簡単に列記してみよう。
持続:状態がそのまま続くこと、保ち続けること(例・効果が持続)。
連続:切れ目なく続くこと、続けること(例・連続ドラマ)。
継続:前から行なっていることをそのまま続けること、そのまま続くこと(例・継承)。
存続:存在し続けること(例・種の存続)。
これらからもわかる通り、「続」の文字に何を加えるかによって、様々な意味を使い分けている。
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では、僕の目指す「永続」とはいったいどういう意味だろう。
「永」は「永い(ながい)」を意味する言葉なので、「永続」は永く続くという意味だ。
ここで見逃せないのが「永い」と「長い」の違いについてだが、「永い」が時間の長さなのに対し、「長い」は時間以外の長さを示すという。
「長い」の対義語は「短い」だが、「永い」の対義語は見当たらず、「永(とわ)」の対義語として「束の間」がある程度。
どうやら、「永い」という言葉自体が「長い」に「永遠、永久、永続」などの「無限の意味」を加える用法に過ぎないようで、僕は「永い=無限に長いこと」と説明したい。
したがって、「永続」とは「無限に長く終わらないこと」とでも言えそうだが、分かり難いことは明らかだ。
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本題に戻そう。
僕が伝えたいことは、「続けることに終わりは無い」ということだ。
先ほど掲げた「持続、連続、継続、存続」を見ても、全ての言葉に終わりは無い。
ところが、持続可能性とか存続可能とかいう言葉には、終わりを前提とした意味がある。
つまり、このまま行くと滅びるものを、どうすれば滅ばずに済むかという方法を模索する。
環境問題、人口問題、食糧問題など、全てが人類の滅亡を前提としていることに僕は問題意識を持つ。
つまり、現在我々がやっていることは、およそすべてが破たんを前提にしていること。
成功、成長、繁栄、活性化など、一見良さそうな言葉はすべて、永続を想定せず「良い終わり方」でしかないように思う。
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僕は、自分が何を言いたいのか、分かってきた。
それは、「終わり」を前提とするのでなく「終わらない=永続」を前提にしよう・・・ということだ。
「”成功”でなく”永続”という選択肢」を「”終わり”でなく”終わらない”という選択肢」と言い替えなければと、改めて気が付いた。
僕が「仲間づくり」を提唱するのは、死を前提とする「終わり(寿命)」ある個人から脱却するためだし、「法人化」を提唱するのは、死なないを前提とする「終わらない(不死身の)」法人になりたいから。
例え線路に終わりが有っても、そこを走る列車に終わりがない。
終わりの見えない線路にまたがることで、ずっと以前からこれを目指してきたことを、今日僕は確認できた。