憲法を使おう

日本国憲法が施行された記念日5月3日には、憲法に関する行事やイベントが各地で開催され、改憲の賛否についても様々な議論が交わされた。
一方、先日テレビで報じられた「読売新聞社による憲法に関する全国世論調査(郵送方式)」によれば、憲法を「改正する方がよい」は61%(前回昨年3~4月調査60%)と、2年連続で6割台の高い水準となったという。
禍やロシアによるウクライナ侵攻など、憲法のあり方を問う世界規模の出来事が相次いだことが影響したとみられている。
もちろん僕は、安易な改憲には絶対反対だが、その理由は「改憲が間違い」だからでなく、あまりにも「安易で無責任」だと思うから。
そしてこの憤りこそが、僕を動かす原動力になっていることを、今日はお話したい。

我が国の改憲論議の核心は、ロシアのウクライナ侵攻や、北朝鮮によるミサイル発射など、の想定に対する危機意識だ。
つまり、現憲法が定める「戦争放棄を前提とする武装放棄」は、戦争を想定すらしない「世界の非常識」だという考え方。
調べてみると、日本国憲法のような「国際紛争を解決する手段の戦争放棄」の条項は、アゼルバイジャン、エクアドル、ハンガリー、イタリアの憲法にもあるのだが、これらの国々は「軍を持つことは」放棄していないし、徴兵制を採用している国すらある。
また一方で、コスタリカのように「戦争放棄をせずとも常備軍を廃止した国」では、戦争が起こることは否定しなくても戦争を想定も備えもする気が無い。
つまり、改憲派の言い分は、自衛隊を憲法に明記することで「どちらかと言えば前者」、つまり「戦争する気はないが備えだけはしておく国」になるべきだというものだ。

僕が戦争を大嫌いな理由は2つある。
一つは、「一億総玉砕」を命じておきながら無条件降伏した「戦争当事者」への不信感。
そしてもう一つは、広島の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」への納得感。
つまり、噓(うそ)は大嫌いだが、や反省は大切だと思う。
だから、次の2項で構成される「憲法9条」は上記の嘘と反省に対する「答え=約束」だ。
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
僕は、この約束を国に委ねるのでなく、僕自身が守りたいと強く思う。
僕の言う「」とは、「日本国憲法に基づく地域社会を作ること」だと、今改めて気が付いた。

日本国憲法の前文には、「基本的人権の尊重」、「国民主権(民主主義)」、そして「平和主義」の三つが掲げられ、特に3つ目の「平和主義」は第9条の「戦争放棄」に結実する。
この前文と条文は、いずれも「国連憲章の引用に過ぎない」と揶揄する意見もあるようだが、僕はそうは思わない。
国連憲章を引用することで、世界の範となることこそが、敗戦という失敗と反省に基づく証に思う。
むしろ、日本が戦争を放棄してからすでに76年が経過したのに、追随する国が一つもないことの方が問題だ。
すべての国連加盟国は、戦争の放棄に賛同しているのなら、もっと平和の構築にどん欲になっても良いはずだ。

そこで僕は、日本国内に小さな日本を生み出して、戦争しない小さな世界を作れば良いと考えた。
かつての世界には、もっと多数でな国々がひしめき合っていたのに、戦いに勝つことで生き残るため規模と力を競うようになった。
地域の価値は、その大きさや強さでなく、独自性に有ると思う。
日本という国の独自性は、世界に一つしかない希少価値ではなく、そこに多様な生態系と熟成した文化がてんこ盛りに有ることだ。
なので僕は、日本が一つの国である必要を感じないどころか、むしろ多様な国家の集合体になるべきだと思う。
僕の関わる全てのコミュニティを小さな国に見立て、それらが緩やかに連携する「小さな世界としての日本」を作りたい。
そしてその国々には、軍備など絶対に必要ない。