保存と販売

先日小樽で「もったいない博物館」をご案内いただいたJAさんが、この度「市立小樽美術館協力会・会長」に就任されたと伺って、来月またお目にかかれるのを楽しみに思うと同時に、ふと疑問が湧いてきた。
博物館と美術館は、一体何が違うのか。
早速chatGBTで調べて見ると、「一般的には、美術館は絵画などの芸術作品を中心に、博物館は遺物や資料などを展示しているイメージがあるかもしれません。しかし、法律上では「美術館」と「博物館」に違いはありません。どちらも文化財保護法に基づいて指定された施設であり、文化遺産の収集、保管、展示、研究を行っています。」とのこと。
ちなみに、美術館を規定する根拠法は「博物館法」で、美術館や動物園などを含む「博物館」の定義や目的、設置や運営、認定や指定などに関する規定を定めている。
展示内容によっては、歴史博物館、美術館、科学館、動植物園、水族館などがあり、「美術館は博物館の一分類」となる訳だ。

だが僕は、そんな議論をしたい訳では無く、博物館と美術館という言葉の使い分けから「直感的」に気が付いた違いについて述べてみたい。
まず、違いを述べる前提として、共通事項を確認しよう。
博物館法にもあるように、両者はいずれも「保存と継承」に深く関わっている。
法では、その対象を「文化遺産」と呼んでいて、「人類が学ぶべき過去」であると僕は理解する。
これに対し、美術館と博物館の違いとは、芸術作品と遺物資料の違いということだが、ここに僕は強い違和感を覚える。
そもそも芸術作品の作られた時代背景や作者の意図は、遺物資料的要素であり、その真贋(本物かどうか)にいたっては、遺物資料そのものだ。
これはあくまで地理的歴史的美意識の問題であって、作品そのものが持つ美に関する議論ではない。

一方で、人々が美術館に求める「美の鑑賞」は、高価なショッピングや豪華な食事に似ている。
入場料を支払うことで「目の保養」ができる上に、売店ではレプリカ購入を楽しめる他、場合によっては展示作品を購入することもできる。
絵画や陶芸など、様々な創作に取り組む芸術家たちが、その環境や時代を背景としていないとは言わないが、彼らの多くが何らかの利益をもたらす芸術作品を目指すのは当然だ。
かと言って、全ての芸術家がによって作品を生み続けるとは限らない。
いやむしろ、成功や評価どころか、その存在を知られることも無く埋もれ、消えていく数の方が多いかもしれない。

この議論の引き金となった2つのエピソードを紹介したい。
一つは、2月に訪問した「私が買った“アート”はここが好き展」で、作者でなく購入者がアート作品を出展する試みが面白かったこと。
作品を売るための展示でなく、購入者が自慢し見せびらかす展示を見て、美術館と違う空気を感じた。
そしてもう一つが、先ほど述べた「もったいない博物館」に展示された名も無い家族の記念品。
母が嫁入り道具として持たせてくれたが、使うのも捨てるのももったいなくて寄贈された「ネクタイを縫い合わせた座布団」は、その美しさに込められた愛情に心が震え、名画を見るような体験だった。
両者に共通するのは、作者が作品を売るための展示で無いということで、それが「非・美術館」という概念を生み、「博物館」の見方を変えた。

博物館の分類に、科学館、動植物園、水族館などが含まれることもまた興味深い。
考えてみれば、自然現象や動植物だって、その美しさに魅了され感動する側面と、その地理・歴史的経緯を実感する遺物資料としての側面がある。
博物館を構成するすべての施設に「美術館的な面」と「博物館的な面」の両方が備わっているならば、最初に述べた「美術館は博物館の一分類」を僕はあえて否定したい。
それは、「販売目的と保存目的」を区別したい思いに通じている。
動植物を例に取れば、「販売目的」は消費目的や営利目的と連動して、家畜や食用や装飾用として扱うし、「保存目的」は、利用目的や持続目的と連動して、愛玩や鑑賞や互助の対象として扱うだろう。
そして、「土地」を「販売目的」と「保存目的」で明確に区別すべきという僕の主張につながっていく。

議論が混とんとしてきたので、整理しよう。
「販売」とは「手放すこと」、「保存」とは「手放さないこと」と考えれば、両者はまるで逆のこと。
この2つが混在することが、社会に混乱を招いていると、僕は主張し続けている。
今日気付いた「博物館と美術館」の混在は、「手放せない捨てられない価値」と「求められ高く売れる価値」の混在を意味している。
不動産や株価の値上がりを喜ぶ人は、それを売りたい人であり、売るつもりの無い人にはむしろ迷惑だ。
だが、値上がりを嘆く報道をあまり見かけないのは、「保存目的」がマイノリティだということだ。
多くの人が口先だけ「持続可能な社会」を目指す、嘘つき社会に気付いて欲しい。