もったいない日本語!

友人のKIさんの招きで、久しぶりに北海道の小樽に行ってきた。
小樽出身の彼女は、お子さんがアメリカの大学に進学したのを機に狭苦しい東京暮らしに区切りをつけ、自然と触れ合う拠点づくりを画策中。
小樽には、使われなくなった洋館が多数存在し、その保存や存続が求められている。
そこに着眼したKIさんは、「小樽民家」の再生に取り組む人たちとの知己を得て、魅力的な物件を見つけたが、築100年を迎える建物や土地については解らないことだらけ。
そこで、かつて相談相手だった僕の、土地建物全般の知識と経験を見込んで、10数年ぶりに訪ねてきた。
だが、小樽は遠いし、日帰りも可能だが航空チケット費がかさむ。
むしろ、札幌に前後泊する方が、しっかり小樽を探索できるうえに費用も安い。
そこで僕は、2泊3日で訪問する代わりに、「小樽で活躍する人」を紹介して欲しいと依頼したところ、KIさんは快諾してくれた。

まずは、小樽訪問の主目的である洋館の取得に関する現地調査や仲介者との打合せを終え、いよいよ「面白い人」の訪問だ。
小樽中心のメルヘン通りから少し行ったところにある、現在閉鎖中の「小樽秋野スキー博物館」に案内され、オーナーのJAさんにお目にかかった。
建築は明治19年(1886年)頃の木骨石造4階建で、小樽における石造り店舗の先駆けだそう。
もちろん木造4階のままでは使用できず、2~4階を吹き抜くことで巨大な2階空間を持つ建物になっている。
だが、一般公開するには更なる消火設備が必要なので、会員制の限定公開とすることでこの課題をクリアするという。
「それってまさに、僕が各所で実践するコミュニティ方式です!」と答えると、すっかり意気投合し、館内を丁寧に案内して下さった。
そしてさらに車で移動して、限定公開中の「もったいない博物館」と、目下改装中の「心意気博物館」に案内して下さった。

JAさんによるご案内は、余りにも感動的かつ盛沢山だったので、ここではバッサリ割愛するが、「もったいない」や「心意気」こそが次世代に継承したいことであり、それを五感で感じてもらうためにこれらの施設を作っている。
この取り組みを広めすることがJAさんのライフワークであり、多くの「もったいない」や「心意気」の証が寄贈されてくるという。
初対面にも拘らず、夕方から夜にかけて丁寧にご案内いただいたが、皆さんに報告するにはあまりにも物足りない。
そこで、「小樽もったいないツアー」を企画して、改めてお誘いすることを宣言する。
JAさんの取組を皆さんにお伝えするだけでなく、僕自身真剣にお手伝いしたいと決意したので、乞うご期待。

さて、ここからが今日の本題だ。
の必要性を論じる時、保存や継承に関する議論は避けられない。
守りたい、続けたいと願う原動力は、失われることに抗(あらが)う気持ちから生まれてくる。
僕が空き家や地域衰退に抗うのは、それが喪失や滅びを意味するから。
そもそも僕ら生物が生きているのは、種の絶滅に抗う生殖本能によるものだ。
生きる原動力が無ければ、生きない=死や滅びが選択されてしまう。
だが、生きることは楽ではないので、「生きづらさ」という言葉がはびこっている。
そこで今、生きる動機付けをするだけでなく、死や滅びに抗う動機付けに注目が集まっている。
それがズバリ、「もったいない」だ。

「もったいない」には、主に二つの用例が有る。
1.食べ物を捨てるのはもったいない(有用なものを無駄にしないで大切にするという気持ち)。
2.こんな高価な贈り物をいただくとはもったいない(自分にふさわしくないと思って恐縮するという気持ち)。
両者は、「残念」と「感謝」という正反対の意味を持つだけでなく、「捨てる」と「いただく」という正反対の行為に対する用例だ。
前者は、たとえ自分が満腹でも、他の誰かが食べるかもしれないので食べ物の廃棄に抗う気持ちだが、そもそも食べきれない量の食べ物を頂くこと自体が自分にふさわしくないと恐縮する気持ちを後者は意味している。
これが英語であれば、残念な「無駄な場合」なら「waste」を用い、感謝すべき「有り難い場合」なら「precious」を用いるが、この両者を併せ持つ言葉は見当たらない。
「電気を消さないで出かけるのはもったいないです。」は、「It's Mottainai to leave the lights on when you go out.」で通じるという。

「もったいない」がそのまま世界に広まったのは、日本独自の言葉だからと言われるが、少なくとも英語には無い独自性は、このことに違いない。
先ほどの「もったいない」は、大切な電気の「供給への感謝」と「浪費への戒め」を併せ持つ、僕たちの気持ちの2面性を両面から抑え込む「決め言葉」だと僕は思う。
これを「日本語の曖昧性」と論じることこそが、日本語の価値を貶(おとし)めている。
“日本人の「環境や資源に対する敬意や節約」の精神”と曖昧な「や」で列挙せず、「環境に対する敬意と資源に対する節約」と「と」で明確に併記すれば、格段に解り易くなるではないか。
むしろ僕は「曖昧性」でなく、「日本語の両義性」とでも言い替えたい。
対になる概念を併せ持つことで、むしろ「思いと現実」の関係を見事に言い表す、これはひょっとすると日本語の優位性かも知れない。
人間が言葉で思考するのなら、優れた言語は優れた思考を生み出す可能性があるはずだ。
そんな日本語を駆使しないなんて「もったいない」と僕は思った。