類似と同一

先日テレビで、昨年開かれた「視覚障害がある人も作品に直接触れて楽しむことができる彫刻の展示会」の様子を見た。
神奈川県藤沢市の点字図書館で開かれたこの会に展示された70点ほどの作品は、牛や猿、蛇などの動物を表現したものから、仏像や人をモチーフにしたものまでさまざまで、すべて直接、触れることができる。
その日は、視覚障害がある人たちのグループが訪れ、ひとつひとつの作品に触れて、作者から話を聞いたり、点字の説明を読んだりしながら楽しんでいた。
そんな中、60代の全盲の女性は「自宅で可愛がっている文鳥を触っても、いつも翼をたたんでいるのですが、ここの展示で初めてはばたく鳥の姿に触れることができ、感激しました。」と話すのを聞いて、僕は不思議な気持ちになった。

これまで、鳥が翼を広げる姿から、飛ぶことをイメージしたことなど有っただろうかと。
僕たちの感じ方はその逆で、初めに飛ぶ鳥を見てから、その翼を広げていることに気付く。
さらに言えば、空を動くものを見て「飛ぶ」を認識し、その動き方や姿を見ることで、飛行機と生物と植物などを区別して、その生物の内虫以外を鳥と認識し、やがてその一部がコウモリであることに気付く。
これは、「見ることから始まる認識」と、「見ることを経ない認識」の違いが存在することの気づきでもある。
単なる順番の違いでなく、「見ること」の意義に関わる問題だ。
翼を広げた鳥の姿を、「丁寧に触れること」と「それを目で見ること」がまったく違うことは、目を閉じて触れてみればよく分かる。
むしろ、そこにある「誰もが目を閉じることでできる認識」は、視覚障害の有無になど関係ない。

僕は以前、これとは逆の試みに遭遇したことを思い出した。
それは、視覚障害者に絵の魅力を伝えるための「触れるレリーフ展」だった。
視覚に障害がある人が、触覚を研ぎ澄ませることによって点字を読みこなすことは広く知られているが、それは地図や地形図などでも同様だ。
特に立体地形図は、実際の地形の凹凸をデフォルメしたもので、むしろ平面図よりも直感的にわかりやすい。
そこで、立体を平面上の凹凸としてデフォルメさせた表現をレリーフと言うのだが、様々な絵画をレリーフ化することで、触覚による鑑賞に挑んだのがこの展示会だった。
この展示会は目の見える人には好評だったが、視覚体験の無い人にとっては意味を持たない展示となった。
それは、我々が慣れ親しんでいる「平面=2次元の世界」とは、まさに眼の構造による視覚体験だから。

眼球は、瞳孔から入る光情報を水晶体(レンズ)によって網膜に結像することで視神経に伝達する。
つまり、視覚情報はあくまで平面情報、これを脳が立体情報に加工して認識しているので、僕たち自身がそのことを忘れているにすぎない。
絵画や写真などの平面情報を見て、立体的に認識することこそが、視覚の役割と言えるだろう。
そもそも、触覚情報は3次元(立体)情報なので、2次元(平面)情報はその一部に過ぎない。
凹凸の少ない立体地形図は平面地形図に近いので、双方の認識は類似しているが、これが風景の遠近や人物の立体を平面化したレリーフになると、視覚体験の無い人には理解できないだろう。
写真は「真実の口」と言われる有名なレリーフだが、これを触るだけで顔と認識するのは至難の業だ。
古代都市の下水のふたの穴を口に見立てることができたのは、まさに視覚のおかげという訳だ。

ここで僕が言いたいのは、この問題は「視覚の有無」でなく「視覚体験の有無」によるということだ。
もちろんそれは「触覚」についても同様で、全ての感覚に言えること。
「できるかどうか」でなく、「やったかどうか」が重要だと思う。
僕がこだわる「仲間づくり」には、何かを共有することが欠かせないが、それは「類似」でなく「同一」であることが必要だ。
そのためには、同じ感覚による同じ体験に基づくこと。
もしかすると、どんなに優れた理屈でも、類似しか作れなかったのではないか、、、と頭をよぎった。
体験の共有こそが仲間づくりに欠かせないとすれば、僕はこの仮説に挑みたい。