やりたいとやりたくない

今日は「生き方=時間の使い方」の話をしたい。
僕の就寝時間は、基本的に23時から6時までの7時間。
火・木は朝のウォーキングと朝ドラを見ながらの朝食の後、区営プールで1000Mのスイミング。
10時から18時までが作業時間でその後夕食と自由時間。
月・水・金は朝7時から23時まで全部作業時間。
週末は朝食の後、土曜は笑恵館、日曜はいづみ(横浜)で9-17時に作業して、夜はウォーキング+夕食+自由時間。
結局1週間の作業時間は8×4(火木土日)+16×3(月水金)=80時間となり、1月=4週とすれば、月間320時間となる。
これは、いわゆる週40時間労働制からすれば、時間外労働160時間となり、過労死ライン100時間を大幅に上回る。

もちろん、上記の作業時間の内には、掃除や洗濯、買い物や飲み会の他にサボり時間も含まれるので、僕が死んでも過労死認定は難しいが、就労時間や過労死ラインがいかに無意味かを僕は言いたかった。
また、ついでに説明すると、僕は数年前から原則として昼食を廃止して1日2食を続けているが、それでもじわじわ体重が増えてしまうので、80kgを超えると食事を1日おきにする。
さらに、毎日1時間以上のウォーキングと週2回30分以上の運動として1000mスイミングを課しているので、これらを盛り込んだ生活スタイルが上記の時間割となる。
僕は、作業と遊びの区別がよく分からないので、自身の予定を立てる時、やるべきことは全てが作業と位置付ける。

生きるためにやるべきことは様々あるが、その選択可能な自由度も様々だ。
例えば、睡眠や排せつ、呼吸などはあまり選択の余地はないが、食事や運動などはかなり自由度が高い。
さらには、恋愛や生殖、子育てや介護など社会性に係る事項や、そのための学習や訓練、そして疲れをいやす休息や娯楽、好奇心に基づく探求など、考えれば考えるほどすべてが生きることと無関係でないことが想起される。
だが、これらのことは選択の幅も広く、その必要性には個人差がありそうだ。
そこで僕は、呼吸、睡眠、食事、排泄に加え、自分に必要な健康維持に関する事項を選択し、生活スタイルの枠組みに採用した。

さて、本題はここからだ。
先ほど述べた生存要件に対し、必要とされる時間の質や量は様々だ。
呼吸などは5分も辞めれば死んでしまう必須要件ではあるが、幸いなことに地球上ほぼ全域において、空気は無料でいつでもついでに吸うことができる。
また、睡眠や食事は一刻を争う訳ではないが、一定期間内に無防備な時間を過ごすことは避けられないし、排泄はある時突然に襲い掛かって来る。
さらに言えば、炊事、洗濯、掃除、買い物など「家事」と呼ばれる行為は、まさに上記の「生存要件」に付随する。
従って「家事」もまた、様々な質や量の時間を必要とする。

一方で、ここで扱う時間とは、「自分自身に与えられた時間」のことでもある。
僕たちに与えられた時間は、極めて限定的である上に、止めることも使い直すことも叶わない。
その上、蓄積はもちろんのこと節約すらできないので、誰もが平等に受け容れざるを得ない。
結局僕たちにできるのは、何をするかを選ぶことによって、その配分を決めるだけ。
だが、それ以上何があるというのだろう。
少なくとも自分に対しできることは、何もせずに選択に抗(あらが)うことくらいしか思いつかない。
なるほど、選択せずに時間を使うこと、つまり、「やりたくないこと」をやることができるではないか。

念のため言っておくが、「やりたくないこと」とは、「やりたいと思わないこと」でなく「やりたくないと思うこと」を指す。
例えば「呼吸」は、やりたいと思ってやるわけではないが、「呼吸したくない」訳では決して無い。
つまり、「やりたくないが我慢してやること」が「生きる」という選択に対する「抗い方」なのかもしれない。
僕の周囲には「やりたくないこと」に時間を費やす人々が大勢いる。
やりたくないことをやることで対価を得ることを「仕事」と呼ぶ人もまた多い。
対価を得るために生きないことを選ぶか、対価を得られなくても生きることを選ぶか。
確かに前者は、人間だけがやることかもしれないが、それは人間らしい生き方でなく、人間らしい死に方に思える。
なぜ僕が、報酬の有無など気にせずにやりたいことをやるのか、少しわかった気がする。