仕組みを疑え

フィリピンの入管が犯罪者をかくまっている。
連日テレビが伝えるこのニュースに、社会は困惑を隠せない。
犯罪者の国外逃亡や、不正な入国を防ぐための施設のはずなのに、なぜそこが犯罪の温床になっているのか。
地獄の沙汰も金次第の言葉通り、看守や警官の買収は容易くて、金さえあれば自由に暮らせるらしい。
その上、被害者を装う仲間が収容者を告訴することで、容疑者としての保護を受け、国外退去や強制送還も免れている。
また国内に目を転じれば、入管における理不尽な収容者の虐待や、死亡事故の多発までが指摘される。
こんなジレンマを生み出す「国境」とは何なのか、その説明は難しい。

戦争もまた、「国境」が生み出す悲劇と言える。
国内での内輪もめである「内戦」や、国以外の組織からの攻撃である「テロ」などは、法で定める犯罪を適用して防ぎ・裁くことが可能だが、国境を挟んだ国同士の戦いである「戦争」はいまだに防ぐ手立てがない。
先日、友人たちが集まって持ち寄り食事会をやったのだが、ひょんなきっかけで「ウクライナ戦争」の話になり、「10年前にモスクワに行った時、プーチン人気がすごくて、僕もTシャツ買ってきたけど、今や絶対に着れないよ」と語る者に対し、皆は苦笑いするしかなかった。
もちろん国境を越えて侵攻を続けるロシアを許す気にはなれないが、反撃してロシアを打ち負かすべきだとも思えない。
だが待てよ、なぜ今の僕にはなす術がないのか。
それは、国同士の争いを裁く仕組みが無いからか、僕は仕組みに頼らないと何もできないのか。

ここで言う仕組みとは、一義的には法律やルールのことを指すのだが、僕らは法律やルールが無くても様々な仕組みを感じながら生きている。
例えば、正義感や罪悪感などの道徳的概念に基づく認識や、男らしさや母親らしさなどの社会通念的常識など。
周囲の人たちと共有できる感覚や考え方さえあれば、それに身を委ねたり従うことが解決や円満をもたらしてくれる。
かつて、勝者は容赦なく略奪し、敗者はそれに甘んじていたのは、むしろ相手を攻め滅ぼすことが常識で、その強弱関係を世界の仕組みとして受け入れていたのかもしれない。
だとすれば、この無力感やむなしさは何なのか。
これこそが、今周囲と共有できていることなのかもしれない。
共有できる仕組みが無いことを嘆くのでなく、この虚しさを共有しながら力を合わせて仕組探しをすればいいではないかと、僕は気づいた。

今朝もまた、「フィリピンのルフィ」、「ウクライナとプーチン」とニュースが続いた後、「原子ブラックホール」の話題が飛び込んできた。
ここでは詳細を書かないが、宇宙が生まれた直後にできたと考えられるめちゃくちゃ重い物体のことで、質量1.73億トンで半径0.256fm(フェムトメートル=10-15m)以下のものはすでに蒸発しているので、それ以上の物質と言われている。
電子の大きさが2.82fmと言われるのに、その1/10で1.73億トンだからとんでもない。
そんなものが飛んで来たら、身体どころか地球ですら簡単にすり抜けてしまう上に検出するのも不可能だ。
もしもそんな物質がたくさん有るとしたら・・・という仮説を実証すべく164億円をかけ、当初今年度までだったプロジェクト「KAGURA」に対し、国が2年間の延長を認め、来年度3年ぶりに再開されるという。
これまた、誰もが共有するには程遠い、難しい途方もない話だが、世界中のもの好きな科学者たちが国家を巻き込んで探求し続けていることが、僕には素晴らしい朗報に思えた。

虚しさや嘆きを乗り越えるために必要なのは、その答えを導くために疑問を持つことだ。
困りごとや願い事が有るならば、それ自体を具体的に説明して助けや協力を求めるべきだ。
国同士がもたらす弊害を乗り越えるに、「国なんか無くしてしまえ」というのは安易すぎる。
現に、「宇宙には、まだ見たことも無いブラックホールが体をすり抜けて飛び交っているかもしれない」という疑問が世界をつなぎ、国家を動かしつつある。
自分の知っている仕組の中で、答えが見つからないのなら、仕組みや問いかけそのものの間違いや不足を疑うべきだと、僕は考える。