怒るとキレる

先日僕は、大切な人と大喧嘩をしてしまった。
言い争った末に僕はキレて、その場を立ち去った。
自宅まで1時間ほどかかる距離だったが、僕は歩くことにした。
頭を冷やすこと、冷静に考えること、反省すること、そして忘れるためだった。
だが、歩きながらふと気が付いた、なぜ忘れる必要があるのだろう。

怒ることは良いこと、とは思えないが、これは感情なのでやむを得ない。
だが僕は怒ることは好きじゃないし、怒りたいとも思わない。
だから怒った状態でいることから一刻も早く平常心を取り戻したいので、僕は席を立ち、頭を冷やしたいと思った。
やがて、なぜ怒ってしまったのかを冷静に振り返り、自分なりに怒りの原因を探ってみる。
そして、怒らずに済ます道もあったのではと思いながら反省とともに、二度と怒るまいと決意も頭をよぎる。
普通ならここで「この怒りを忘れることなく、むしろ糧にしていきたい」などと言いそうなものだが、なぜかそうはならない。
怒った事実は忘れるべきではないかもしれないが、怒った内容は忘れたいと思う自分に気が付いた。

アドラー心理学によれば、人は何かの原因によって怒るのでなく、何かの目的をもって怒るという。
支配するため(親と子、上司と部下、先輩と後輩、教師と生徒などの関係において)。
主導権争いで優位に立つため(夫婦間、同僚間、友人間において)。
権利を守るため(プライバシーや人権を脅かされるなどの場面において)。
正義感を発揮するため(ルールやマナーを守らない人に対して)。
こうした考え方に対し、確かに違和感を覚えない。
だが僕がここで考えたいのは、他人に対する目的でなく、自分に対する目的だ。

怒りたくないのなら、我慢して怒らなければいいはずだ。
それでもあえて怒るのは、怒りたくない思いを上回る理由が何かあるはずだ。
僕はキレる瞬間に、そのスイッチが入るのを感じた。
キレるとは、他人に対する怒りでなく、怒りたくない自分にあえて怒るよう命じる瞬間に思えた。
その瞬間、なぜ僕は自分の怒りを解放したのか。
僕はずっとそのことを考えながら歩いていた。
ひょっとすると、怒りをこらえることで自分を偽るのでなく、怒りを爆発させることでその存在を共有し、両者で忘れることを望んでいたのではないかと気が付いた。

僕にとって「忘れる」とは、無かったことにするのでなく、過ぎ去った過去にすることだ。
忘れずに根に持つことは、いつまでも過去にせず、抱えたままで歩き続けること。
物事には愉快なことや楽しいことばかりでなく、不愉快なことや辛いことも様々ある。
そもそも「忘れる」とは「思い出す」ことを想定していて、消去や否定とは違うはず。
FacebookなどのSNSに、完全に消してしまう「ゴミ箱」の他に、とりあえず見えない状態で補完する「アーカイブ」という機能があるが、「忘れる」はまさに「アーカイブ」に近いと思う。
アーカイブとは、英語の「Archive」に由来する言葉で、「保存記録・保管所」の意味を持ち、主にIT用語として用いられる。
先ほどの「忘れる」の対極にある、「忘れない」ための方法だ。

アーカイブと混同しやすい言葉に、データの消失や破損に備えて、復旧用にデータを保存しておく「バックアップ」という作業がある。
バックアップではデータを圧縮せず、複製データとして保存して、本データの更新に合わせて定期的に上書きしながら最新の状態を保つが、アーカイブファイルは圧縮保存するだけで、保存時の状態をそのまま維持するのが通常だ。
なるほど、その時点の怒りをそのままコンパクトに圧縮して保管庫に入れることが、「キレる(怒りを爆破させる)」ことに思えてきた。
僕は「あの時キレたこと」だけを忘れずに、「キレた内容」を保管庫にしまい込む。
そして、キレてしまった相手に対しても同様の処理をお願いし、「もしも必要になったなら”キレた記憶”からその内容を思い出せばいい」と伝えたい。

そもそも「忘れる」ということは、「思い出すため」と「思い出さないため」のどちらなのかは分からない。
でも、「忘れる」と「思い出せない」とは違うこと。
「思い出せない」に備えるのがバックアップで、「忘れる」に備えるのがアーカイブともいえるだろう。
「いざという時に思い出せるよう、しっかり記憶して忘れること」が、「キレる」ではないかと僕は思う。