どうでもいい!

先日、鹿児島県の指宿に土地を所有するSさんから、どうすればその土地を手放さず、指宿の町を活性化するにはどうすればいいかと相談を受けた。
彼はそこで暮らしたことはないが、指宿での暮らしには魅力を感じるし、周辺には親戚の家が点在するという。
そこで僕はSさんに「あなたはいつまであるいはいつまでにそれを実現したい?」と尋ねると、「いつになるか分からないがいつまでも続けたい」と答えた。
僕はすかさず「ならば僕は応援する」と宣言した。
指宿が良い所かどうかはどうでもいい、Sさんがそこを好きかどうかもどうでもいい、僕は継続する終わらないことに興味がある。

僕はよく「どうでもいい」という言葉を使う。
この言葉の使い方は「そんなことはどうでもいい」とか、「どうでもいいけど始めよう」など様々だが、ここでは「成功か失敗かはどうでもいい」や「良い悪いはどうでもいい」など、何かを「関係ない」と言い切る使い方を指す。
これに対し、「どうでもよくない!」と反論する人がいて、ちょっとした口論になることがある。
今述べたとおり、「どうでもいい」は「全てが良い」ではなく、「どうなっても放置して良い≒関係ない」という意味なので、この反論は「無関係ではない!」という意味であろう。
だが僕は、この反論に対しては即座に再反論するようにしている。
関係する外せない要件なら、前提や条件にせず本旨にきちんと組み込んで欲しい。

例えば「良い悪いはどうでもよくない」と言うのなら、「良い悪いをどうするのか」を具体化して欲しい。
「良い悪い」は何を意味して、どのように判別し実現するのかを明確にしなければ、実行もサポートもできない。
もしも「良い悪い」はあくまで個別の主観であって、客観的に定義することなどできないなら、その人は僕と「良い悪い」を共有できるとは限らず合意はおぼつかない。
合意なしに勝手にやることが「興味に基づく応援」のはずがない。
この場合「良い悪い」の議論そのものが、僕の応援の範囲外であることを「どうでもいい」という訳だ。
つまり、目指す実現の範囲を限定せざるを得ないこと、これを肯定的にとらえることだと僕は思う。

さて、日常生活の中で誰もが気軽に使う「どうでもいい」という言葉の意味を説明するために、話がどんどん複雑化し、ややこしくなってきた。
実は、このジレンマが今日のテーマだ。
本来「説明」とは、「解り難いことを解り易くすること」のはずなのに、説明を聞くことでスカッと爽やかな気分になることは滅多にない。
それは、自分が判っていることを人に判らせることがいかに難しいかの表れだ。
ここで試しに「解る」と「判る」を使い分けてみたが、「解る=理解する」で「判る=判別する」と辞書にある。
良し悪しで言えば、良し悪しを知らない人に説明することと、知っている人に伝えることの違いかもしれない。

先ほど僕が要求したのは「知らない人への説明」であるのに対し、反論者が求めるのは「知っている人同士の確認」なのだろう。
前者は指宿を知らない人を含めた取り組みを目指すのに対し、後者は指宿を知っていることが前提となる。
両者の違いは、比較できる範囲を超え、もはや後者は前者の一部分にすぎない。
知らない人と知っている人の双方を対象とするのに、知っている人にしかわからないことなど「どうでもいい」、つまり、「一部の人たちの思い込みなどどうでもいい」と言い換えることで説明としたい。
どんなに大勢いようとも、すでに居る人たちだけで永続性を実現することはできない。
まだ生まれてもいない新たな人が参加したくなり、それを受け入れることこそが永続には欠かせない。
大切なことをみんなで共有するために、これからも「どうでもいい!」と僕は唱える。