疑問を共有する仲間

先日世田谷で、環八に面する500坪の土地を相続する話を聞いた。
環八の路線価は500,000円/㎡なので、この土地の相続評価額は約825,000,000円となる。
6億を超える財産の相続税率は55%なので、この土地にかかる相続税は約453,000,000円。
一方、相続評価は市価の70%とされているので、この土地の市価は1,178,000,000円となり、これを譲渡した場合の譲渡所得税は約235,700,000円となる。
僕が提唱する「脱相続=土地所有の法人化」とは、相続のたびに相続税を払い続けるのでなく、譲渡所得税を1回だけ納税することで土地を非営利法人に寄付してしまい、不死身の所有者になるやり方だ。
この場合、4億を超える相続税を世代交代のたびに払い続けるか、その半分の譲渡所得税を負担するだけで法人に譲渡して、世代を越えてこの法人を維持するかという選択だ。
土地を売りたくない、売る気の無い人なら、後者を選択すべきなのは明らかだ。

この話を聞いた時僕は、昨年末友人G君からの報告を思い出した。
それは東京東部のS区で、苦労の末ようやく60億の相続税を払うことができた大さんのつぶやきだ。
自分は何とか払うことができたものの、なぜ代替わりのたびにこんな苦労を繰り返さねばならないのか。
世田谷の例と同様に計算すれば、税額60億を税率55%で割れば評価額109億となり、仮に路線価400,000円/㎡だとすれば27,250㎡(8,257坪)となる。
G君が活動するK町の面積は約25ヘクタールなので、約1割の面積に相当する。
する地域コミュニティに取り組む僕たちにとって、この規模の土地を所有する一人の人が仲間になってくれたなら、間違いなく強烈なインパクトを持つだろう。

だが同時に、このインパクトが僕らの狙い通りの効果をもたらすかはかなり疑問だ。
僕らの狙いは土地を個人で所有せず、する選択肢を提示すること、大きな土地や金額の持つ衝撃力は、そのホコ先を贅沢や羨望へと向けかねない。
このことをまざまざと感じたのが、今回大阪湾に現れたマッコウクジラの死だ。
突如現れた8mの巨体は、即座に「淀ちゃん」と呼ばれる人気者となり、海辺には全国から見物人が集まった。
前例のないこの事態に手をこまねくうちに、ついにクジラの死亡が確認され、物議をかもしている。
クジラが可哀そうだ、なぜすぐに助けなかったのか、クジラ1頭助けられずに何がSDGsだと、もはや議論の暴走を誰も止められそうにない。
インパクトとは、気付きを生み出すモノでなく、思い込みを加速するモノなのかもしれない。

今回のクジラ騒ぎだって、行政も専門家たちもタダ手をこまねいていたはずがない。
恐らく様々な意見が交わされ、様々な対処法が検討されたが、その実行が間に合わなかっただけだろう。
だが、この「間に合わない」ことが問題だ。
検討中で構わないから発表し、社会と課題を共有すべきだった。
恐らく彼らは、発表=結論であり、そこに伴う責任を懸念していたのだろう。
今回の場合で言えば、クジラが迷い込んできた時点での対処、1日様子を見た上での対処など、対処に関する説明が皆無に近い。
これでは「どうすべきだった」という反省どころか、「何もしなかった」とされてしまう。

インパクトが思い込みを加速するのなら、逐次説明することで、有意義な議論に誘導できるのではないか。
いやむしろ、説明とはそのための手段ではないかと、僕は気が付いた。
説明とは「疑問に答えること」であり、説明が示すのは「どういう疑問を持ったか」でもある。
様々な出来事において問われる「説明責任」とは、単に説明せよということでなく、疑問に答えることで事態を進捗させる責任だ。
求められた時の説明によってのみ、その原因となったインパクトの矛先を修正できるのであり、そのタイミングを逃したら最後、その関係性は時とともに変化し続けてしまう。
安部元首相を狙撃した山上容疑者の動機説明だって、もしも事件直後でなく、永い黙秘の後だったなら、今とは全く違う状況になっただろう。

そろそろ、迷走気味な今日の議論の本題をはっきりさせよう。
土地所有に関する僕の提案は、相続に関する家族の内紛や相続税負担の重圧に悩む人に対するインパクトを持つからこそ、その当事者や関係者から相談を持ち込まれるのだろう。
だが僕の目的は、そうした争いや負担から逃れることでなく、完全に消し去ることに他ならない。
したがって僕の悩みは、自分の言葉に託す強い思いと、それがもたらす衝撃がかけ離れてしまうことなんだ。
そこに飛び込んできたG君の報告はまさに朗報であったが、それにもまして僕は、G君が朗報と承知して伝えてくれたことに感動した。
そもそも、土地もお金も持ち合わせない僕の気づきを共有してくれるのは、土地やお金を持つことに疑問を感じる人のはず。
どうすればその疑問を持つのかではなく、どうすればその疑問を共有できるのか。
常に思いを語りかけ、その人が「僕と共有できる疑問を持った瞬間」を、逃さず捕まえたいと強く思った。