先日NHKの番組コズミックフロントで、「地動説 〜謎を追い続け、近代科学を生んだ人々の物語〜」を見た。
「地動説」をテーマにした漫画「チ。~地球の運動について~」の名シーンをアニメ化しながら、地動説にたどり着いた科学者たちの物語を紹介する。
https://www.nhk.jp/p/cosmic/ts/WXVJVPGLNZ/episode/te/K9GRWX5VG8/
これまで僕は、地動説のことを「天動説を覆すことで、現代の天文学をスタートさせたコペルニクスの偉業」とばかり思い込んでいた。
だがそれは「大きな間違い」だと、この番組は教えてくれた。
「地動説が正しくて、天動説は間違いだ」は、間違いだ。
天動説は「地球が中心」で、地動説は「太陽が中心」という前提・モデルの違いであり、地球と太陽のどちらが中心かという単純な話ではない。
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早速僕の好奇心に火がついて、色々調べると、こんな面白い動画を見つけたので紹介したい。
左が地動説で、右が天動説を示している。
どちらも、左端の太陽から惑星を一線上近い順に並べた状態からスタートし、どこを回転の中心とするかの違いだけ。
この説明は先ほど述べたばかりだし、僕も知ってるはずだった。
だが、実際にそれを動画で見ると、この違いに圧倒された。
僕はこれまで「解っていた」のでなく、「解ったつもりでいた」に過ぎないことを突きつけられた思いがした。
だが待てよ、「解ったつもり」から「解った」に変化する時こそが、まさに「解る瞬間」なのかもしれない。
だとすれば、僕は今、この現場を理解せずに離れるわけにはいかない。
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僕が知りたいのは、「解る瞬間」に「何が起きたか」ということだ。
まず、その瞬間が訪れたのは、先ほどの動画の右側を見た瞬間だ。
その時僕は、間違いなく「見たことの無いもの」を初めて見た。
だが、単に見たことの無いものを見ることが、こうした驚きをもたらす訳ではない。
誰にとっても、見たことの無いものを初めて見ることなど日常茶飯事のことであり、むしろ見たことのあるものを見ることより多いかもしれない。
それなのに、今回の衝撃は何なのか。
それは、「予想とあまりにも違うこと」に対する驚きではないだろうか。
ひょっとして僕は、全然違う天動説を勝手にイメージしていたのではないか。
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「チ.」という漫画は、どうやらそこを描いているらしい。
15世紀当時の人々は、天動説が正しいというよりは、地動説など知らなかった。
その上番組の中では、天文学を学ぶ若者が右側の絵をすらすらと描いていたし、むしろ地動説の話を聞いて目を丸くしていた。
天動説が誤りで、地動説が正しいと信じている僕だからこそ、天動説の説明を聞くこと自体が衝撃だったのかもしれない。
だがこの驚きは、これまで天動説の具体的な説明など「聞こうともしなかった僕自身」に起因するし、天動説を正しいと思っていたなんて、無知で愚かな時代だという思い込みがあったことは否めない。
考えてみれば、両者の違いは地球と太陽のどちらを中心に考えるか、つまり主観的と客観的の違いに過ぎない。
宇宙を客観的に理解したつもりになっていた僕にとって、宇宙を地球中心という主観的に見る驚きは、むしろアインシュタインの相対性理論を知った時にそっくりだ。
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それにしても、変なことに驚く奴だとあなたは思うかもしれない。
実は僕にとって、この種の驚きは初めてじゃない。
それは地主の学校を書く中で、「所有」について調べるうちに、この言葉が明治以降に持ち込まれた翻訳語だということに気付いた時だ。
日本にはなぜ、土地所有に関する学問も無ければ、管轄官庁も存在しないのか。
それは、そもそも「所有という概念が無かったため」ではないかと気づき、愕然とした。
我が国の土地所有に関する記述を調べると、奈良時代の「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」にまでさかのぼるが、これはあくまで「私財」に関する法であり、どこにも「所有」は出てこない。
天動説は、あくまで地動説が認知される以前の宇宙観であり、無知や未開とは関係ない。
これこそが、僕の驚きであり、気付きの本質だと思う。
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地球上でもっとも進化を遂げた存在が人間だと言うおごりは、天動説を信じていた時代に対する優越感とよく似ている。
生物進化のプロセスにおいて、人間は最も新しい選択もしくは分化かもしれないが、それは他より優れていることを意味しない。
昆虫の8割以上は空を飛べるのに、人間は誰一人として自力で飛ぶことができない。
確かに人間は、他の生物が真似ることのできない文化や文明を作り出し、今や経済活動が地球環境を破壊するまでに成長した。
だがこのことも、天動説を知ることで地動説を忘れた自分を思わせる。
自分自身の存続を脅かす客観性だけにとらわれず、自分から世界を見る「主観的な目」を持つ必要を、僕は感じる。