他人を家族に

我が家の正月は、89才の母を中心に3人の子夫婦、7人の孫、そして4人のひ孫が集結する。
だが、皆が一堂に会するのは年に一度の正月だけで、昨年の11月からは母と妹の住む家に僕が朝晩通っている。
幸いなことに、母はまだすこぶる元気だが、足腰が衰えてきて日常生活にも介助が必要になりつつある。
だが、妹も僕も、母を介護施設に入れる気はさらさら無く、もちろん母も同様だ。
それは決して「それが正しいから」でなく、「そうしたくない」からだ。
いや、もっと正確に言うならば、「自分がそうされたくないから」と考える。
介護施設に入るということは、僕にとって「一人暮らし」を意味するから。
もしもすでに一人暮らしをしている人ならば、入居した施設の職員と暮らすことは「一人暮らしでなくなる」ことを意味するかもしれないが、一人暮らしをしたことのない僕らは「施設の職員と暮らしたい」とは思わない。
それは、施設の職員は家族ではないからであり、僕らにとっての一人暮らしとは、「家族と一緒に暮らさない」ことだ。

家族でない人を他人とよぶならば、他人と暮らすことも一人暮らしと変わらない。
だから僕は、独り暮らしを防ぐために、身近な人を家族にすることを心がけている。
今暮らしている笑恵館は、入会することで家族になれる「会員制のみんなの家」だ。
そして、毎日食事に通っている母と妹の暮らす家は「日楽庵(ひらくあん)」と名付けたシェアハウスで、4人の同居人が家族として暮らしている。
僕が入居した笑恵館アパート202号室に、同居人がいる訳ではないが、アパートの隣室や、笑恵館に出入りする会員たちはみな緩やかな家族だ。
僕にとっての家族とは、親子や兄弟などの血縁者だけでなく、身近な他人も含まれる。
そこで今日は、血縁でない家族の定義について、きちんと考えてみたい。

先ほどの介護施設を例にとり、他人としての施設職員と、家族の違いについて考えてみよう。
まず初めに思い当たるのは、家族は無償で面倒を見てくれるのに対し、職員が無償で働くことはあり得ない。
家族はなぜ、無償で助け合うのか。
それは恐らく、生まれた子供を親が無償で育てることから始まるのだろう。
無償で子供を育てる親は、子どもからの感謝や見返りを期待するだろうし、子どもはその恩に報いたり期待に応えようとする。
こうしたやり取りこそが、「原始経済」と言われる経済行為の原点だ。
はるか昔、まだ社会=家族だったころ、貨幣が生まれるずっと以前の経済行為に、金銭の授受は存在しなかった。
やがて社会規模が拡大し、他人との経済行為が生まれると、持続しない単発の取引をその都度精算する必要が貨幣を生み出したと考えられる。

こうして生まれた貨幣経済が、社会規模の拡大に寄与したことは、持続的な信頼関係を必要としない他人社会の確立を意味している。
「金の力」は、「無償の家族に依存せずとも、有償の他人に依存できる力」となり、家族への依存から人々を解放した。
子どもの世話になりたくない親も、親の面倒を見たくない子も、そして誰の世話にもならず一人で自由に生きたい人も、その願いを「金の力」で実現できる。
こうして豊かになった人々は、自由な孤独を手に入れた。
だが、それはほんの一部の人に過ぎないことを忘れてはならない。
すべての人がそうなれる訳では無い上に、全ての人がそうなりたい訳では無い。
問題は、そうなることを目指す多くの人が、そうなれなかった時に備えようとしていないことだ。

僕は、お金の力を否定する気はないが、それに依存する気には絶対なれない。
お金が無くなる心配をするのでなく、お金が有ることに喜びを感じたい。
だから常にお金に頼らず、つまり他人に頼らず自分自身でできることをやりまくる。
出来れば誰かのためになりたいし、誰かに頼まれたことにはできるだけ応えたい。
誰にでも無償で相談に応じるのは、誰とでも家族になってみたいと思うから。
僕が有償を求めるのは、あくまで持続的に依頼される証としてであって、決して成果報酬ではない。
もちろん客からはお金をいただき、従にはお金を支払うが、共に主体となる家族や仲間とは、無償のやり取りを基本としたい。

友人G君の便りの中に、「一年に一度、正月は親族とたわいない時間を過ごす。」とあり、共感した。
親族とは血縁家族のことであり、ここから今日の思索が始まった。
今年もまた、家族を作り増やしていく日々を始めたい。
「他人を家族に変えること」こそが、僕のやりたいことだと、改めて思った。