失敗前提の挑戦

挑戦とは、困難な問題や未経験のことなどに取り組むこと。
僕が取り組む「起業」とは、文字通り「事業を起こす」ことでなく、むしろ「挑戦全般」のことを指す。
両者の違いについて論じたいのだが、それは「僕の言う起業」と、「一般に用いられる起業」という言葉が違う意味を持つということだ。
僕は決して、誰もが「起業」という言葉を「間違った意味で使っている」と言いたいわけではない。
むしろ、起業には「挑戦的起業」と「そうでない起業」があると言った方が良いかもしれない。
そこで今日は、「起業」と「挑戦」の違いについて述べることにする。

「挑戦」において重要なことは、ゴールまでの道のりを描くこと。
前例(経験)があればそれをトレースできるが、前例が無い未経験の「挑戦」では、それを自力で描くしかない。
道のりを描けずに結果だけを目指すのは、まぐれに身を任せるようなもの。
そこで、ゴールまでの道のりという仮説を描き、一歩ずつ実行検証しながら進むことになる。
この時肝心なことは、最初の一歩をどうするかだ。
一歩踏み出すことで、気づいたり判ったりすることが、2歩目の踏み出し方に示唆を与えてくれ、2歩目を踏み出すことが3歩目という具合に繰り返しが始まる。
だが、初めの一歩にはほとんど何も手掛かりが無く、自分の意思だけで踏み出さなければならない。

また、一歩ずつ軌道修正しながら前進できているうちは、かなり順調な方だろう。
場合によっては次の一歩が踏み出せなかったり、来てはならない所に辿り着いてしまうこともある。
こうした状態を失敗と呼び、多くの人がそこで前進を諦めてしまう。
だがもしも、それでも諦めずに前進を続けたなら、人はそれを失敗と呼ぶだろうか。
「失敗は成功のもと」という言葉は、こうした失敗を乗り越えてこそ成功にたどり着けると説くわけだが、僕はあえて、その状況でなく諦めを「失敗」と呼ぶことにしたい。
では、前進を諦めて辞めてしまうのが失敗なら、必要がなくなって前進を辞めることは何というのだろう。
前進する必要がなくなるとはゴールに着いた時のことで、それは成功を意味している。
つまり、「途中で辞める」のが「失敗」で、「最後に辞める」のが「成功」と言えるかもしれない。。

さて、もしも終わりを求めるのでなく、終わらないことを求めるなら、ここで言う成功や失敗は不要になると僕は思う。
すでにそこには終わりという成功は存在せず、継続を阻む失敗だけが立ちはだかる。
失敗をものともせず、乗り越えれば良いと言われるかもしれないが、幾多の失敗を重ねた僕は、その難しさをよく知っている。
たとえ失敗によって前進が停止しても、初めの一歩からやり直せばいいじゃないか。
かつて会社が倒産に追い込まれ時、そう考えた僕にとって一番難しかったのが初めの一歩を踏み出すことだった。
失敗を乗り越えるには、まず失敗しなければならない。
失敗を回避し、失敗しないようにしている限り、失敗を乗り越えた先に行くことはできない。

そもそも失敗して停止してしまうのは、失敗を想定せずビックリしてパニックになるからだ。
失敗を想定するとは、失敗しても止まらないようにすること、つまり、失敗した時に為すべきことを決めておけばいい。
例えば、自分が何かの役職に就くことで仕事をするつもりなら、役職に就けなければ何もできなくなってしまう。
そこで、役職に就くことを前提とするのを辞め、役職に就けなかった場合の対処法を決めておけばいい。
もしも役職に就くのがゴールなら、役職に就いても就かなくても、そこで取り組みは終了だ。
だが、仕事をやるために必要な役職であれば、役職に就けなくても諦めるわけにはいかない。
これこそが失敗を乗り越えるモチベーションであり、必要性となる訳だ。

失敗を乗り越えるには、乗り越えた先にゴールを見据えればいい。
そうすれば、途中で失敗しても成功しても、目指すゴールに変わりはなく、それを目指して何度でも挑戦すればいい。
余談だが、英語のチャレンジは「挑戦」ではなく、「疑い」という意味を持つそうだ。
challengeは「間違って非難する」という意味のラテン語起源の動詞で、主に他動詞として用いる。
近頃様々なスポーツで審判の判断に異議を唱えることを「チャレンジ」と呼ぶが、まさにこれが疑うこと。
「何に挑む」ではなく「人に挑む」という意味で使われている。
成功や失敗も、現実そのもののことでなく、人がどう思うかの問題だ。
失敗の想定が「反対意見の想定」だとしたら、むしろ必ずすべきことだと僕は思う。