個人からの脱却

12月も中旬となり、そろそろ年賀状を書きたくなった。
かつての僕は、より多くの方と賀状の交換をしたいと思ったが、SNSの普及とともに熱意は薄れ、今では賀状を下さる方にだけこちらからも届けるようにしている。
だが、年賀状という風習は大好きなのでやめるつもりは毛頭ない。
「誰もが今年一年を振り返り、来年の指針を高らかに宣言する」なんて、なんて素晴らしい習慣だ。
そして賀状の具体的内容よりも、仕事、家族、趣味などどんなテーマを選ぶかが、僕の関心事だ。
多くの人がこれらの中から一つを選び、毎年その変化を伝えてくれる。
たかが年に一度の小さな便りに過ぎないのに、賀状のやり取りは深い絆を感じさせる。

また、昨年は義弟の逝去に伴い、年賀の挨拶を差し控える喪中のお知らせとなり、賀状の意味を考えさせられた。
繰り返される年賀の挨拶が終わるとき、それは生きる営みが終わることを意味している。
現に、身内の葬儀を行う時は、必ずと言って良いほど「年賀状名簿」に沿って訃報を届ける。
つまり、先ほど触れた「賀状交換による絆」とは、「訃報を知らせる絆」でもある訳だ。
まだ僕は、「来年あたり死にそうだ」という体調には至っていないが、やがて老いたり病んだりするうちに、そんな年を迎えることになるのだろう。
そうなったら僕のことだから、「来年はそろそろ死にそうなので、誕生祝を兼ねた生前葬に乞うご期待」なんて書くかも知れない。
そんなわけで、2年ぶりの年賀状に、僕は一体何を書きたいのだろうか。
このブログを書きながら、今日はこの課題について考えたい。

まず初めに、前回の年賀状を見直すと、そこには「にも、負けずにバイクで行くからね!」と書いてある。
確かに新型コロナウィルスの感染拡大が始まったのは2020年初頭のことだから、もうじき満3年が経過しようとしている。
その間、様々な影響があったし、11月にはついに自身も感染した。
でも、延期になったオリンピックのことなどすでに昔の記憶となりつつあり、新たな喜びや悲しみが次から次へと降り注ぐ。
やはり年賀状で知らせるべきことは、僕自身にとって一番大切なことにすべきかと思う。
先ほど、多くの人が一つのテーマに沿ってその変化を伝えてくれると述べたが、まさにそれが「その人にとって一番大切なこと」として僕には伝わる。
ならば僕も、これまで繰り返し伝えてきたことこそを、一番大切に思っているはずだ。

そこで僕は、これまでの年賀状の下半分を振り返った。
そこには必ず「本年もどうぞよろしくお願いいたします」から始まって、僕の連絡先と、活動する所属団体が列挙されている。
これを見た途端、僕はこの2年間でやってきたことを思い出した。
僕が活動する所属団体が、今月さらに2つ増えて、7つになるということだ。
そこで今年の年賀状は、このことに焦点を当てることにした。
そもそも、僕が所属する法人はこれ以外にもいくつかあるし、商店街やプロジェクトなど法人以外の活動も多数ある。
だが、活動全般を通して「法人」は重い意味を持っていることに僕は気が付いた。
それは言い替えると「個人からの脱却」を意味している。

そもそも僕たちは、個人のメリットとデメリットの狭間で苦しんでいる。
個人には「自由」という圧倒的なメリットがある反面「孤立」というデメリットを避けられない。
していれば「孤立」を「不干渉」と捉えることで「自由」をさらに高めることができるが、すると「自由」が「放置」に変化して「孤立」を深めてしまうことになる。
つまり、「個人主義」とは成功を前提とした理想主義だと僕は思う。
だが、自由競争は必ず成功失敗双方を生み出し、どちらかと言えば失敗が多数を占める。
今の日本は、まさに豊かさが不幸を生み続け、それを分かち合えない孤立を深めている。
ぼくは、この流れに逆らいたい。

そんな思いで取り組んでいるのが「なコミュニティ」の創出だ。
かつて自由を勝ち取るために個人を尊重したように、これからはもっと多様な集合を作りたい。
3人の個人は3種類の個人だが、3人から生み出す集合は、3種類の2人組+1つの3人組=4種類の集合だ。
今求められている「多様性」とは、「個人」のそれでなく「集合の多様性」であることに気付いて欲しい。
コミュニティが個人より多様であることこそが、脱個人の意味だと思う。
だからこれからも、変な法人を作り続けたい。