僕はスポーツ観戦が苦手だ。
特に、片時も目を離せない手に汗握る緊張感に、長時間付き合いたいとは思わない。
もちろん、それが家族や友人が登場するゲームなら話は別だが、感情移入もせずに他人の一挙手一投足に僕が一喜一憂するのは難しい。
もちろんこれは、僕の言い訳だ。
サッカーワールドカップの日本ドイツ戦のみならず、日本スペイン戦も見もせずに、直後の報道を見ただけで痛く感動する自分に驚いている。
なぜ僕は、当事者でないことはもちろんのこと、実況中継を見る追体験すらせずに涙が出るほど感動するのはなぜなのか。
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初めに僕の頭をよぎったのは、やっかみに近い強いあこがれや嫉妬に似た感情だ。
選手たちの充実した表情に加え、これを称えるすべての人たちの幸福そうな笑顔を見て、僕は悔しいくらい羨ましく思った。
「勇気をもらった」とか、「感動をありがとう」という言葉が、この状況を言い当てているとは思えないが、確かに何かをもらった気がするし、それに対する感謝やねぎらいに嘘はない。
だとすれば、途方もない大勢に対し、膨大な何かを与えたことは間違いない。
それは、僕自身の中に沸き起こる感情の重さから容易に想像できる。
そして、日が経つにつれ、その感動はますます膨らんでいく。
様々なメディアを介して、新たなコメントやエピソードが伝わってくるからだ。
こんな大事件を放置できない。
この感動を分析したい。
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と、思ったけれど、そのプロセスをここに書くのはやめる。
ここでは結論をまず書いて、少し説明を加えるだけにしよう。
この感動の核心は、「奇跡と必然」だと思う。
ドイツ、コスタリカ、そしてスペインと対戦した予選リーグのプロセスは、世界中の大多数の予想を覆す「奇跡」に違いない。
だが、その「奇跡」は決して偶然ではないのだから、それを「必然」と呼ぼうという思いが、瞬く間に世界で共有された、、、と僕は見る。
兼ねてから僕は、「起業」を「まぐれでなく実現」だと説いてきた。
願ってもいないのにたまたま現実化する「まぐれ」に対し、あらかじめ願ったことを叶える(現実化)ことを「実現」と呼ぶべきだと。
ここで言う「偶然と必然」の意味は、まさに「まぐれと実現」と同義語だ。
つまり、今回の出来事を通じて「僕の持論を目の当たりにした衝撃」こそが、僕の感動だと確信した。
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さて、ここからが今日の本題だ。
今回の事件を、僕はあえて「必然の奇跡」と名付けたい。
最後まで粘り強く、諦めなかったから、そして勝利を信じて臨んだからこそ、誰も予想しなかった「強豪2国に対する逆転勝ちによる予選リーグの1位突破」が実現した。
この結果は、奇跡には違いないが、決して偶然ではなく必然の結果だと、選手・監督はもちろんのこと、日本中いや世界中から聞こえてくる。
つまり、「必然の奇跡」は間違っていないどころか、これほどまでに世界を幸福にする力を持つ。
だとすれば、僕らはもっと奇跡を起こそう。
決して簡単ではないが、だからこそやるべきだ。
こうなったら、決勝リーグでもさらに勝ち進んで欲しいし、もっとでかい声で「ブラボー!」と叫んで欲しい。
そしてその先には「戦争なんかやってんじゃねえ!」とか、「みんなの自由を奪うんじゃねえ!」と叫び、願い、勝ち取りたい。
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以上、サッカー日本代表のお手柄を自分ごとのように思う僕でした。
でも実は、誰もがそう感じてるんじゃねえの??