ばらまきなんかしなくていい

先日、S君の紹介で「農家はもっと減っていい」という本に出合い、早速図書館で借りて読んでみた。
著者の久松達央氏は、20代で脱サラして就農し、有機農法の事業化に挑んできたが、生産者側から見たビジネスとしての農業の悲惨な実態を知り、黙っていられなくなったという。
ほとんどの農家は農業を生業としておらず賃貸業や他業務との兼業で、我が国の農産物の大部分を一部の生産者が担っている。
売上が5千万円以上無ければ、生活費が捻出できないことを考慮すれば、専業農家の大部分も零細企業に過ぎない。
ところが国は、大多数のダメ農家を対象に保護や育成支援を行っており、結果として競争を阻害し、消費者に就けを回している。
つまり本書は、数の論理が少数の革新の芽を摘んで、全体の退廃を招くという現代社会の構造を批判している。

国やその出先の自治体(以下官という)が担う公益とは、不特定多数の益のこと。
つまり選り分けることなく、そこにいる多くの人のためになることや、その人たちが求めることに取り組むことが「官の役割」という理屈だ。
久松氏の嘆きは、農作物の安定供給や農業の発展を望んでいない大多数の農家のために、農業を鍛えるのでなく甘やかし助成していることだ。
僕はこの考え方に強く共感する。
だが僕は、多数の愚かな人たちが社会をダメにしていく「衆愚政治」という言葉で、民主制を揶揄したいのではない。
本当に嘆かわしいのは、「民衆の愚かな側面」に付け込んで、お金をばらまく奴らの愚かさだ。

政治にしてもビジネスにしても、お金をばらまく人が敬われるのはなぜだろう。
確かにお金が無いと困るし、お金があれば助けになる。
だがそれは、そのお金を払うことで自分の手間や労力を省くことができるだけ。
お金があれば何かができるようになるのでなく、むしろできなくなり、自力で生きる力が次第に失われていく。
補助金の助けを借りて、売値を下げることが社会のためになるなんて、本当にそうなのだろうか。
確かに支出は抑えられるかもしれないが、収入が増える見込みも立たれてしまうのは確実だ。
その上、ばらまく側はすべてでなく、自分たちの手間賃を差し引いてからばらまいているのが現実だ。
まずは国が徴税し、それを都道府県にばらまき、さらに市町村にばらまいてから市民にばらまけば、途中で幾重にも手間賃を稼ぐことができる。

一方で、私たちの支出も増えるばかりだ。
いわゆる物価の変動は、需給の関係、世界情勢や為替の変動による影響など、世界のどこにいても避けられない。
だが、受益者負担と呼ばれる地域独自の支出は、平等なはずの公的な負担に格差をもたらしている。
例えば、所得に応じた所得税や、享受するサービスに応じた消費税などの税金がその代表だ。
その他にも、治療内容に応じた医療費や学校の教育費など、費用の一部あるいは大半を受益者が負担して、残りを公的な資金で充当する。
公共サービスの内、受益者負担の無い無償サービスとしては、警察や消防、一般の道路や公園などがあげられるが、さらには新型コロナウィルスのワクチン接種や、自衛隊の軍備・トンネル・橋梁・河川・ダムなどの社会インフラ、そして外交などもあり、これらの前提で経済活動ができていると考えれば、「所得」も受益に含まれる。

ここでちょっと整理したいのは、収入と支出の双方を受益と考えることだ。
お金を払うことでサービスを享受するのも、お金をもらうことでサービスを享受できるようになることも、享受という受益に変わりはない。
なので、収入と支出とは、お金という受益に対し負担(税)がかかるか、お金が受益の負担(対価)になるかの違いに過ぎない。
大切なことは、受益者負担の有無、つまり、受益者負担は一体何のためにあるのかということだ。
まず、収入と支出の双方に負担があるのは、それが公共サービスの財源だから。
収入の多い人に多くを負担させて、均等なサービスに回すことが、税や保険による再配分の仕組みだ。
だがこれに対し、サービスの享受に対する負担を求める受益者負担とは、一体何のためにあるのだろう。

混同を防ぐため、享受に対する負担を「有償」と呼ぶことにしよう。
例えば、医療費の3割負担や介護保険の1割負担は、「医療費の有償化」の結果だ。
世界には医療費や教育費が「すでに無償」の国がいくつも存在する一方で、日本のように「今後の無償化」を検討する国もある。
「大学が無償の国」は少数かもしれないが、「高速道路が有償の国」も極めて珍しい。
つまりここには、その国や社会の考え方が色濃く反映する。
キューバの経済は貧しいが、医療費は無償の上、大学の医学部もほぼ無償で卒業できるのは、そもそも野戦病院でゲバラが医療を提供したことで革命軍が支持を広めたためだと言う。
スウェーデンの大学無償化が1970年代のオイルショック後に本格化したのは、国家が構造不況産業を救済するのを辞め、すべての労働者に成長分野を学び直す機会を提供するためだと言う。

だとすれば、日本の医療はなぜ3割負担なのか、高速道路はなぜ有償なのか。
その先に目指す未来があって、その実現のために必要だからなのか。
もしも、成長と拡大を続ける前提なら、「いい加減にしろ」と僕は言いたい。
さらに言えば、税や保険など再配分の仕組みすら、成長を前提とするだけの「詐欺まがい」かもしれない。
社会保険の財源が足りないから消費増税し、それでも足りなければ赤字国債・・・など、とても経営と呼べないでたらめだ。
とまあ、「農業政策への憤り」を話したら、「ばらまき政策への憤り」がさく裂した。
そんな僕に共感する人は一緒に小さな国を作ろう、そしてあなたの国づくりを手伝わせて欲しい。