先日、アフガニスタンで命を落とした中村哲医師のドキュメント映画「荒野に希望の火をともす」を観て、痛く感動した。
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中村医師が成し遂げたことは凄いことだし、殺害されたことは悔しいことだが、この映画は中村医師が亡くなった後も未来に向けて活動が終わらないことを伝えてくれる。
だが、僕にとって最も衝撃的だったことは、アフガンの大地を潤す用水路の建設が、江戸時代の日本から学ぶことで作られたということだ。
山田堰は、江戸時代に干ばつで苦しむ農民たちを救うため筑後川右岸の耕地を水田化するために設けられた井堰(いせき)のこと。
井堰とは、水をよそに引いたり,水量を調節するために,川水をせき止めた所を指す。
原型が造られたのは1663年で、1790年頃に現在の形となったようで、その後、幾度も大洪水に見舞われたが、現在も当時の形を留めている。
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2019年12月に亡くなった中村医師が、干ばつによる上に苦しむ人々を医療では救えないと気づいたのは2000年の頃だった。
彼は無謀にも用水路作りを思い立ち、独学で土木工学を学びながら着手したのだが、資金も資材も無い中で参照できるのは昔の事例だけ。
そこで、日本全国の堰を訪れ山田堰にたどり着いた中村医師は、何度も山田堰を視察し研究を重ね、2010年に7年の歳月をかけて全長25.5kmのマルワリード用水路を完成させたという。
現在では1万6500haの荒野を農地に変えることで65万人の人が生活する、アフガニスタンの復興支援の灌漑用水モデルとなっている。
さらにアフガン各地の求めに答え、中村医師は山田堰を徹底的に模倣した堰を5か所で完成させたと映画は伝える。
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山田堰は、水流に対して石を斜めに敷き詰めた、現存する全国唯一の「傾斜堰床式石張堰(けいしゃせきとこしきいしばりぜき)」で、ここから取られた水は現在でも約652haの農地を潤している。
筑後川の水圧と激流に耐える精巧かつ堅牢な構造は、南舟通し、中舟通し、砂利吐きの3つの部分に区分されており、取水量を増やし、激流と水圧に耐えるため、3つの構造的特徴がある。
日本から遠く離れたアフガニスタンでもモデルとされたことで、2014年には、「世界かんがい施設遺産」に登録された。
結局、中村医師の活動は、世界各地に堰の保全や知名度アップに貢献し、今後も中村医師の功績とともに、山田堰の技術が世界の人々に希望を与え続けることになるだろう。
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さて、本題に戻ろう。
僕が驚いたのは、「ど素人の中村医師だからこそ、この山田堰に着目した」ということだ。
だが、振り返ってみればそれは「当然のこと」だった。
そもそも資金も資材も無い中で、現代の技術や工法を採用できるわけがない。
周囲で調達できる無償の材料を使い、無償の人力で作るしかないのだが、それは昔の人間が当たり前にやってきたことだった。
さらに、せっかく作った用水路が、洪水で流されるたびに、これを防ぐにはどうすればいいのかを模索する。
だったら、すでに200年以上の時を経ている事例に学べば良いと気づき、彼は山田堰にのめり込んでいった。
資金だけでなく知見すらない素人でも、明確な目標をもって過去の事例を学ぶことで、こんなすごいことができるとは。
人間の歴史は無駄じゃない、日本の歴史は凄い・・・と僕は気づいた。
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そして、僕のこんな感動には、すでに布石があったことに気付く。
昨年末、コロナ禍の中でマリアの塔を完成させたバルセロナのサグラダ・ファミリアが、そもそも贖罪教会(信者の喜捨により建設する教会)として計画されたこと。
無償の設計作業を引き継いで2代目建築家に就任した、当時は無名であったアントニ・ガウディが、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。
ガウディの死後、スペイン内戦によって当初の設計資料のほとんどが失われたにも関わらず、今もなお完成に向けて作られ続けているのは、誰かの知見や資金によるものではない。
卑近な例では、僕が関わる名栗の森での「道作り」は、山を壊さずに小さな重機がギリギリ入れる道を作り、こまめに手入れをすることで大きな崩壊を防ごうとしている。
これも、先人たちが行ってきた道作りと、先日観た映画「杜人(もりびと)」から多くを学んでいる。
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人々は簡単に「持続可能性・サスティナビリティ」という言葉を口にするが、本当にわかっているのだろうか。
持続するということは、「成功し続けること」でなく、「失敗や破たんを乗り越え続けること」を意味している。
中村医師が砂漠と格闘する頭上を、タリバンの空爆に向かう米軍ヘリが飛んでいく。
「敵という名の悪者をやっつければ平和になる」という理屈で繰り返される戦争を横目で見ながら、中村医師は自分たちの戦いを「生き残りの戦い」と呼んでいた。
資金とか合意とか、条件付きの生き残りなど「真の継続じゃない」と、僕は思う。